オルタナティブ

最近、世界ではオルタナティブ【Alternative】という言葉をよく聞くようになった。

これは辞書でひくと、

①二者択一。代替物。代案。
②既存のものと取ってかわる新しいもの。

とある(goo辞書より)

教育や保育の世界でもそうだが、これからはこの言葉の概念がよく使われるようになるだろうと私は思っている。

私の中では、このオルタナティブという言葉を日本語では『別のモノサシ』という風に定義している。

たとえば、ありとあらゆる事柄においても何らかの目的を達成するために行う動作において別のモノサシという概念的ゆとりを持つということだと思う。
ゆとりとも言えるし、別の観点とも言えるがあえて成熟したものとしてゆとりとする。

たとえば、食事にしたって食欲を満たすという本能的な概念と別に食する場において人に出会ったり、感謝したり、ともに感動を分かち合ったり、命の大事さを学んだり、生きていることを感じあったり、内省したりを楽しんだりスローの豊かさを求めあったりとと単一的な発想ではなくその中にある地球規模での付加価値の高いエコ的な「別のモノサシ」を持つということだと思う。

それは今の日本では、今のアメリカ型社会において当たり前に行われている事柄と別の大きな広い宇宙的観点で接するようなものだ。

つまり日本人が本来大切にしてきた自然との共生というか、地球の生命の一部の感覚というか、自分以外の偉大なものを感じるかんながらの道というか・・・そういった、ことを同時に考えながら在るがままの素晴らしい普遍的な自然の方に自分をあわせちゃんと自立したニンゲンとして選択するようなものだと私は思う。

たとえば、今の世の中は、子どもを育てるということひとつでも単に子育てということばかりが論じられてそれ以外のことを話す余裕すらもなくなってきている気がする。

21歳の頃ドイツに旅行に行ったときに宿泊先で聞いたときの話だが、ドイツでは子育てが終わった後の部屋を使って身寄りのない子ども達を育てたり、若い旅行者に貸し出したりしているところが多いそうだ。

そこでドイツ人のお婆さんと夜にコーヒーを飲みながらゆったりとして話を伺ったときのことだ。

私が泊まった先のそこでは、2人育てた自分の子どもが社会へ出たあと、孤児院から1人子どもを引き取って育てていた。そして、旅行者の若い人たちへ一部屋を開放し泊めている。

私が「お金がかかりますね」伺うと。
お婆さんが「そうですね、まだまだたくさんかかりますね」と言う。

「何だか良い人だな・・」と思っていたらその後こんなことを言われたことを今でも忘れることができない。

「私は、若い人が好き、特に子どもが好きなのよ。子どもがいるって、何ものにも変えがたい『最高の贅沢』だと思わない?お金はかかるけれど、それでもそんなものでは代えれないくらい最高の気づきや幸せを私に与えてもらっている。そうやって子どもと一緒に心が豊かになれるって大変幸せなことだと思わない。」

それを聞いたときはまだ若くてよく分からなかったが、10年経った今ではそれをよく身近で感じるしよく思う。

今の世の中では、子どもを産んだらいくらあげるとか、子どもが生まれたら学費が大変だとか、働けないとか、そんな風潮がマスコミや社会では飛び交っている。とても味気ないし、何だかどうしようもない脱力感だったり、悪いことなの?と思ってしまうほどニンゲンが生きていることに余裕がない感じがする。

しかし、オルタナティブという「別のモノサシ」ではどうだろうか?

『子どもがいるだけでも最高の贅沢。』

そしてその自然のままの子どもとともに育ちあえることは人生において世界においてこれ以上の贅沢は存在しない!

これこそが成熟した今の社会の本来の在り方だと思う。

衣食住足り、これからいったいこれ以上何を望むのか?
まだ資本主義の大量生産大量消費を目指して資源を貪り続けるのか?

そうじゃないだろう。

これからは、そういった社会のなかでも「別のモノサシ」を持つことができる最高の時代ではないのか?

「大きな成長」ばかりが幸せなことなのか?
それよりも「豊かな成長」が先祖代々引き継がれてきた守るべきもので、子々孫々へ遺せる最高の遺産ではないのかと私は思う。

自然が人工的な作用で壊れはじめている中で、ニンゲンの欲が創造した急成長のツケにそろそろ気づかないといけないと思う。
不自然であることが世界に対してどれだけの負債を作ってきているのかを現実に目を向けて行動へ移していく時期に入ったと思う。

絶滅した種をただ弱いと単に切り捨てていいのか?
一斉に大勢という集団だけが尊重されるのはもう以前の旧体制の権力者至上主義のインチキ社会だけで十分だ。

一人ひとりを大切にし共に活かしあう関係とは一体どんなものなのか?

今のような成熟した社会にいる、先進国の我々が行うべき使命は何なのか?

子ども達には、いったい何を伝えていくが大切なことなのか?

子ども達と一緒にそのような「別のモノサシ」があることを我々大人がキチンと分かり伝えていかないと成熟した社会で子どもは安心して自立して地球で共生し幸せに生きていけないのではないかとも思う。

子どものために、もう迷走はこの辺までで止めておきたい。

だからこそ、もっと、しっかりと色々な事柄を資本主義社会の定義する成功や贅沢とは「別のモノサシ」を持っていきたいと私は思う。

まだまだ何をどう伝えて変えていけばいいか分からないが、そういう観点で子ども達によい環境を用意していくよう努力していきたい。

  1. コメント

    自分の中では、物事の本当の意味は何かということを考えた中で行動して行くことの大事さを感じます。やはり自分自身の中で考えることをやめてしまうと、ある意味で間違ったモノサシで様々なものを見て判断してしまいます。自分自身の過去を振り返っても言える事なのですが、何も考えていないのだという事と同じことなのだと反省させられます。特に今の時代は物事を自分の中で見ていく力が必要だと思います。それだけ不自然なものが多いということはとても残念な事ですが、先ずは自分が目の前にある物事の本当の意味を自分なりに見たりかんじたりする事を大事に実践していきたいと思います。

  2. コメント

    物質的なものを追い求めても自分の物欲を満たすだけであり、それによって、大事な
    ことを見失い、貧富の差を生み、精神的なゆとりまで失ってきている様に思います。
    人本来の関わり合う力というものを養おうとはせずに、自分だけのものになってしまう
    のではないかと私自身、振り返っても思えるように思います。他があるからこそ自が
    あることであり、その中で自分というものが見つかっていくのではと思うと、一人
    ひとりを大事にするという共生の理念をどれだけ大事にしているのだろうか、それを
    振返り、一つひとつの行動に活かし、実践出来るようにしていきたいと思います。

  3. コメント

    カグヤに入社して初めてオルタナティブという言葉を聞きました。
    オルタナティブは別のモノサシと出ているが自分が感じたのは、本来のもの、根本的なものだとも感じました。
    例えば、保育に例えると、一斉保育が当たり前のようにある現状がありますが、本来の保育、本物の保育ではない思い、見守る保育が世の中で必要なのではないかと思います。
    自分には、当たり前のことを当たり前と思ってしまうところがあり、何の疑問も感じない悪いところがあります。
    何かあった時は、一度それは何なのか、それは本当は子どものためなのか、世の中のためなのかを考え行動していきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です