感染症という時代の節目

感染症の歴史を深めていたら、人類は今まで何度も感染症によって大変な憂き目にあっていることを知ります。権力者であろうが、神官であろうが、感染症が流行すればだれでも平等に感染します。

歴史をよく眺め直していると、感染症が流行する切っ掛けは共通するものがあります。一つは、人間が遠くまで往来したこと、人間が密集したこと、貧富の差が生まれ粗悪な環境が発生したこと、生物同士の不可侵の生息環境に踏み入れたこと、最近では抗生物質の乱用や科学的実験の乱発で人工的なウイルスになってしまったことなどがあります。

私は専門家ではありませんが、なぜこのような感染症が発生するのかは歴史から学び直すことができます。専門家が詳しいから専門家が正しいわけではありません、一人ひとりがきちんと向き合い、なぜこんなことになるのかを自分自身で考えてそれぞれに問いを持ちながら取り組まなければこの感染症を乗り越えることはできないと思います。

今回、三密を避けるとありましたがそもそもこれだけ世界中で日々に渡航者が大量に往来すれば必ずどこからかウイルスは持ち込まれ感染症は歯止めがききません。それに都会で密集して生活していたら爆発的に感染は増えます。また感染者を排除しようとすることで差別が広がれば余計に感染者が増えていくのも予想できます。検査を受けることすら嫌がり、自分が差別されたくないとみんな感染している可能性があってもそれを隠すようになりパンデミックになります。

実際には具体的な対策をと色々と言っていますが、時短にするとか、外出自粛とか、マスクだけではどうにもならないように思います。本来は、この感染症を止めるためには先ほどの、渡航をやめ、差別をやめ、都会をやめ、自然破壊をやめ、安易な薬をやめ、ウイルスと敵対するのをやめるようなことが必要です。

しかしこれは暗黙の了解でできないことになっていますから、それ以外でということになります。それ以外でということがあまり効果がなくても、それには目をつぶってなかったことにしようとするバイアスが人間の脳には働くのです。だから余計に、感染症が止まることもなく犠牲者が増えて最後は仕方なかったと諦めるのでしょう。

本当はそうではなく、果敢に勇気を出してこれらをやめる取り組みをするしかないのです。コロナウイルスは切っ掛けにすぎず、人類は必ずこの問題に向き合う時がすぐ近くに来ています。コロナがたとえ終息しても、すぐに第2第3が来ますし、今度はもっと厄介なものが来ます。どうせ、その時にあの時にやっておけばよかったと後悔するのなら今の方がまだ国にも個人にも体力があるからできるのです。

人間は本当の意味で危機に追い込まれるまで動こうとはしないものです。ゆでガエルの話のように、じっくりとゆっくりとくる変化に弱いのです。緊急事態宣言とは本当は、今のような安易な一時的な目先の対策をすることではなくまさにリーダーとして、すべてを転換するためにどうあるべきかを国民たちに問うためのものであろうと私は思います。

そうはいっても、誰かのせいにしても解決するものではありませんから自分がまずモデルを示す必要があります。

「できないことばかりを並べるよりも、できる人からやればいい。」

そうしているうちに、できない人もできる人から勇気をもらいやっていくことができるものです。感染症をきっかけにはじまった人類の新しい時代の挑戦は、いよいよ幕を開けました。

子どもたちのために、真摯に挑戦していきたいと思います。

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