昨日、写真家のエバレットブラウンさんから「ドリームタイム」(ドリーミング)のことをはじめて伺いました。これは、オーストラリアの原住民、アボリジニの持つ原初信仰の原点がこのドリームタイムだといわれます。
このドリームタイムは、時間という区切りのあるものがなく常にその土地と一体になった物語がある中で生きているという感覚のものです。つまり現代的な時間や個人ではなく、そこにあるのは風土とのつながりや先人たちが生きてきた物語をそのまま生きているという具合です。
私たちは、日々をいちいち細分化して生きています。24時間、365日、あらゆる単位の中で部分部分を切り分けて存在しています。その切り分けをしているうちに意識も同時に切り分けられ、分類わけしているうちに感覚も失われていったようにも思います。
このアボリジニとは別に、ブラジルのピタハン族という部族に抽象概念を持たないという文化があります。そこには過去や未来などはなく、ただこの今があるのみですが非常に幸福度が高く自然と一体になって生活しているといいます。
私たちにもしも時間をいう概念がなかったとしたら、そして個人という概念もなかったとしたら、私たちは一つの物語をただ今も受け継いでいるだけという意識に生きるように思います。
つまり、今は今の連続でありこの私も今そのものという感覚です。
すると、すべては縁起で成り立っておりその縁起の真っただ中に自分があるという感覚です。その感覚を生きている人がドリータイム(ドリーミング)ということなのでしょう。
人々は太古のむかしから、原始の魂を持っています。その原始の魂は、永遠を生きています。この永遠がわかるという感覚、つまり永遠であるという事実を悟ることが古代の人たちの暮らしを続けるということです。
おかしな話に思われるかもしれませんが、その土地や風土には目には見えないけれど確かに足跡や息遣いは永遠に残ります。それを記憶ともいいます。記憶があるから、そこに魂は生き続けている。つまり記憶が私たちの生命の根幹であり、その記憶を甦生することで私たちはこの世に永遠を生きているともいえます。
これからの時代、何のために生きるのかという問いをそれぞれの人たちが覚醒し世界に問わなければなりません。それはそれだけ、混沌とした物質文明が成熟しすぎて陳腐化してきているからです。なんでも区切り分けてきたツケをはらうまえに、もう一度、原初の概念から学び直すことです。
地球の呼吸に耳を澄ませながら、子どもたちにいのりを伝承していきたいと思います。