世界ではSDGsなど、西洋の定めた新しいルールが席巻しています。持続可能というテーマでそれぞれが取り組んでいくことで、人類がもっと自分たちの将来のために行動を移そうということです。
これはよく考えてみたら、今の行動がおかしいから変えていこうとする投げかけです。もともと縄文人を含め、江戸時代までの日本は自然への畏敬を忘れないで適度に人類のあるべき姿とバランスをとっていました。
戦国時代などは材木を取りすぎて森が壊れ、木がなくなり自然環境が壊れ水害にあいと苦労したと歴史にあります。ほかにも江戸のように人口密集によって疫病や大火などがあり大変な目にあったことも歴史にあります。
人類はやりすぎてしまうと、自然からのしっぺ返しにあい気づかされるものです。
現在、世界は自然を無視して自然資源を地下から採掘していきました。そして温暖化やごみ問題のように、エネルギーを燃やし続けて経済だけを優先し、分解もできないようなゴミになるものづくりを続けてきました。
それが限界値に達してきており、このままでは人類は自然の大きなしっぺ返しにあうのではないかということを予感する人も増えてきたのです。しかし、今更変えられないと思っている人と、なんとかしなければならないという間でこのSDGsが誕生してきたように思います。
しかし私は、歴史を振り返ると根本的なものが解決しないと難しいと思うのです。それは人間の謙虚さのことです。いくら自然環境にやさしくといっても人間が謙虚でなければそれはただのお題目であり中身は薄いものです。自然は人間の思っている通りの存在ではなく、まさに神様のように偉大なものです。人間に空気もいのちも作り出すことはできません。それだけの偉大な存在、そして循環を司り全体最適をこの地球に及ぼしてくれるまさに両親のような存在で徳そのものです。
その地球の中に住んでいる私たちは、本来は何が持続可能ということなのかを再定義する必要があります。つまり、持続可能の本質とは何かということをちゃんと向き合う必要があると思うのです。
私が尊敬する日本人の先人たちは、それを早くから見抜き「暮らし」の中でそれを実践してきました。このそれとは、自然との共生や貢献を生きることです。里山循環も同様に、また伝統的な文化などもそれを証明しています。
人類の真の豊かさとは、真の暮らしの豊かさを持つことです。これを私は「暮らしフルネス」と名付け、先人の知恵や叡智に感謝してそれをこの時代に甦生させようとしているのです。
本物の持続可能性は、この暮らしフルネスの甦生にこそあると確信しています。子供たちのために、暮らしを実践し「永遠の暮らし」を譲っていきたいと思います。