この世の中には、徳という言葉があるように運という言葉もあります。最初にこの現象を発見し言葉を決めた人は、どのような人だったのでしょうか。言葉はいつはじまり、いつ終わるのかを誰も知りません。しかしその言葉が何百年、もしくは数千年の月日を超えて存在するというのはこの世にその現象が存在しているという証明でもあります。
最近は、徳とか魂とかいのちとかをいうとすぐに怪しい宗教などと言われます。そもそも宗教が怪しいのではなく、教祖にしている人間たちが怪しいのであって現象は自然そのものですから現実です。
その現実を言葉にしてこういうものだと決めたのが言葉のはじまりだったようにも思います。つまり言葉は現実と現象を証明するものでもあったのです。
そこで「運」というものを考えてみると私たちはいつ生まれてくるのかはタイミングがあります。またどの場所に現れるのかも同様です。これも現実と現象であり、それは事実ですからそこには運があります。この運をよく観察するとそこには縁があります。つまり縁によって運が導かれていくということです。人の言う幸運というものは、幸縁ということでもあるのでしょう。
運と縁を持つ人は、縁をちゃんと見極めている人です。縁を見極められる人は、素直な人なのがわかります。なぜなら、素直な人は縁そのものがありのままに観えるからです。
通常人は、様々な我執や我欲がありますから縁そのものが曇った歪んだ眼鏡をかけていてよくわかりません。それが澄みきったものになるのならよく縁そのものが観えているという具合です。縁がありのままに観えるのなら、その縁を活かすことができます。しかし縁を活かすにはやはり素直でなければなりません。自分の都合で縁を利用しようとしたら縁は離れていきます。ここでも素直さが運を決めることがわかります。
纏めてみると運は縁であり、それは素直であるときに観えるもの。そう考えてみたらすべての言葉は、素直であるときににしか本当の意味は理解できないということがわかります。この素直は、自然のことです。自然はあるがままに素直ですから、自然体で自然に近づいているときこそ素直さが研ぎ澄まされているということになります。
一種の矛盾でもありますが、知識としての言葉を得た人類はその言葉によって素直さを失っていったともいえます。しかし運というものがこの世に存在しているということを深めるとき私たちはその運が確かにこの世に存在してそれがとても偉大な意味や影響を持っていることはわかるのです。
運を善くするということはどういうことか。それは縁を活かすことです。縁を活かすためには素直であり続けることです。人は目的をもって歩んでいくとき、不思議な幸運を得るものです。それは自然の力の本体でもあります。子どもたちのために引き続き、清き直き明き心で自然の道、かんながらの道を実践していきたいと思います。