喜捨(きしゃ)という禅語があります。これは仏陀の慈悲喜捨からの言葉であるとも言われます。他にもイスラム教などでも似たような言葉があるといいます。喜と捨てるという字の組み合わせですから、なぜ喜びを捨てるのかと思う人もいるかもしれません。
本当は私には、「喜=捨」ということ。つまり喜ぶことが捨てることであり、捨てることこそ喜ぶことだということだと解釈しています。
人は、自分が喜ぶことで他者やみんなが喜ぶことができるのならそれは至上の喜びであり徳であると思います。徳を積むというのは、自分自身が喜んでいることであり、それが相手の喜びになっているという自他一体の境地を実感できるということです。
自然は常に自他一体であり、それぞれのいのちが精いっぱい生きて喜ぶとき、自然界全体のいのちも同時に喜びます。つまりこの喜ぶというのは、いつも自分が仕合せを感じているのであり、その仕合せの中にいて喜びに満ちているという心境です。「ああ、これでいい、ああ、これで善かった」と心の声に従って自分自身が仕合せであることを噛みしめていくこと。まさにその中にこそ、喜捨の精神があるように思います。
決して自己犠牲をすることが良いことではなく、誰かのために自分は我慢することがいいことではないのです。自分の喜びを高めて磨いていけば、それが自ずから誰かの豊かさに貢献していく。つまり徳が循環するようになっていくのです。
そしてもう一つの捨てるという言葉。これは何を捨てたのか、それは自分、我慢です。仏教では「自分を高くみて、他人を軽んじる心」とも言われます。つまり自意識であり自分が特別な存在というように自分というものを勝手に自己認識してつくりだしているものです。自然界では、自分というものはなく万物が一体に存在しています。名前もなく、私はあなたであり、あなたは私です。もちろん役割というものがありますが、どれも平等にいのちは存在します。
自分の慢心や高慢な心は、自分というものを超えた存在を意識して自分の我欲を捨てていくときに磨かれていきます。つまり自分さえよければいいという慢心を捨てるときに私たちは仕合せを感じることができるのです。世の中には、一緒に生きてともに支え合い助け合う仲間がいます。離れていても、会ったことがなくても、そして直接的に関係がなかったにせよ、魂や心で結ばれている存在というものもあります。言い換えれば、先祖のつながりであったり、何かを介して同じ目的のために生きたことがある同志や朋友だったりもします。
そういう人と繋がり結ばれていると実感することで、一人ではないことに気づき、みんなの仕合せを実感するのです。その時、私たちはあらゆるものが手放せるようになります。その最初に手放すのが自分自身の我欲なのでしょう。欲が問題ではなく、我が問題であり大欲は無私であるように小さな我を手放すのです。
この小さな我とは、目先のことであるのは間違いありません。
長い目で、広い視野で、歴史を見通し、本来のあるべきもののためにいのちを活かそうとする。それは徳に目覚め徳に生きるということでしょう。
子どもたちのために、一緒に生きる仲間がいることに私も喜捨の精神を学びました。この志や応援を心に抱え、さらなる徳を磨くための挑戦を皆さんと一緒に続けていきたいと思います。
ありがとうございました。