先日、うちで飼っている犬につないでいたレールが外れ行方不明になっていました。今まで13年間一緒に過ごしてきましたが一時的に首輪が取れたりしたことがあっていなくなっても大体近くにいて遠くにいくこともなかったので安心していましたがそれがすぐに帰ってこず、ずっと心配して必死に探し回っていました。
あちこち探しても、呼んでも返事もなく途方に暮れて張り紙やインターネットで迷子犬としてあちこちに告知をしてみようと手を盡していたら保健所に保護されていることがウェブ上に掲載されていました。警察に落とし物として届け出があり、そこから保健所に保護されたようです。ずっと事故にあったのではないかと不安だったので、写真を見たときは感謝と涙がこみ上げました。
ちょうど連休を挟みましたからすぐに保健所に連絡をして受け取りにいき無事に家に帰ってきました。犬といっても一緒に暮らしの中でかけがえのない大切な存在ですから家族の一員です。
今回、保健所の方とのお話でもしも受け取られない犬がいたらどうなるのかとお聞きしたらガス室で殺処分されるという話がありました。改めてこの現状を調べてみると、悍ましいほどにこの国で犬や猫が殺処分されているのがわかりました。
昨年、2020年の犬猫の殺処分数は犬7,687匹、猫30,757匹 の合計 38,444匹とあります。ワーストでは愛媛県(1,987匹)、福島県(1,770匹)、香川県(1,585匹)とあります。動物愛護管理法の改正、行政と民間の動物保護団体が連携し、新たな飼い主への譲渡を推進していて殺処分数はここ10年でだいぶ減少してきたともいわれます。それでも1日に105匹ほどの犬猫が保健所で殺されているという計算になります。
以前、アライグマの時もこのブログに書きましたが安易に飼育できると買ってきては手がつけられないと手放してしまいそれが野生で繁殖するということもあります。また飼い主が死んでしまったりボケたりして飼えなくなる、他にも人間の都合で飼えないからと殺処分しているともいわれます。
動物愛護団体が色々と対策をたてて活動していますが、そもそもの分母が増えていく一方ですからゴミ問題と同じで根本的な解決にはなりません。人間が安易に購入しては捨てるというこの自然の環境を破壊するあり方そのものを見つめ直すしかありません。
調べる中でガス室で二酸化炭素で殺処分する映像や写真を見ましたが、あれはまるで以前学校で見た第二次世界大戦のころのドイツのアウシュビッツ収容所そのものでした。実際には安楽死させるとありましたが、あんなものは安楽死でもなんでもありません。大量に一気に部屋に押し込みガスで呼吸できなくして苦しんで死ぬ。今まで一緒に過ごしてきた犬たちはどんな気持ちなのだろうかと感じます。家族と離れて収容されて、時間が来たらシステマチックに命を奪われる。孤独と不運を呪い、悲しさと寂しさで心が潰れそうな状況で死んでいくのが想像できます。
人間の悍ましさというのは、時代が変わっても本質的には変わりません。環境の影響次第では人間はどうにでも適応して思考停止してしまうのです。これはどの問題でも同様で例えば食品ロスの問題などもですが「人間の暮らし方そのもの」に端を発しているのです。
平和というものは、本来は部分最適だけをいつまでもやっても訪れることはありません。私たちがよくよく自分たちの暮らしをみつめ、どうあるべきかを今一度見直しその暮らしを変えていくしかないのです。環境そのものを変えないと生き方の実践をしていかないとどうにもならないのは歴史が証明しています。
21世紀は、まさにこの今までの人類の永続的な暮らしが資本主義という名の人間の業によって失われた世紀でした。このままでは人類はあらゆるいのちが軽く処分されていくように人類もまたその同じ道を辿ります。今、まだ気づけるうちに人類の進む道を易えていくしかありません。
同じいのちという存在をどう慈しみ大切にしていくか、そのためにどのような環境をみんなで用意していくか。私たちが志を立てて草莽崛起して、在り方や環境を自分自身でできるところから暮らしを易える実践していくことが重要です。
引き続き、ご縁に感謝しながら子どもたちの未来のために暮らしフルネスを実践していきたいと思います。