「引導」という言葉があります。これは辞書を調べると「引導(いんどう)とは、仏教用語である。仏教の葬儀において、亡者を悟りの彼岸に導き済度するために、棺の前で導師が唱える教語(法語)、または教語を授ける行為を指す。もとは、衆生を導き、仏道に引き入れ導くことという意味であるが、そこから転じて前述の意味として使われるようなった」
そこから「引導を渡す」という言葉が出てきます。この「引導を渡す」とは、諦めるように最終的な宣告をすることを意味しています。その他にも、僧が葬儀の際に棺の前に立ち死者に悟りを得るように法語を唱えることの意味も持っているといいます。
つまり、引導とは引いて導いていくとあるように一人では歩けない状態になってしまった人を思いやりで迷いから目覚めるように手引きしてあげるという感じなのでしょう。
人の生死も突然であり、この世にもたくさんの執着を残してしまうようにも思います。ある人は、大切な人のことが気がかりになったり、またある人は大切な約束を果たそうとしたり、やり残したことや後悔しそうなこともたくさんあります。しかし実際に、この世に肉体がなくなりどうしようもできなくなってしまったことにも諦められずにこの世に留まろうとしてもそのままでは何も変わりません。
時が流れていく以上、時と共に私たちも歩き続けていく必要があります。新たな道へと歩んでいくのにどうしても一歩が踏み出せなかったり、時には一人で歩んでいくことが怖いこともあるのかもしれません。
その時に、こちらですよと優しく声掛けてくれたり、そろそろですよと時を知らせてくれたり、また或いは、迷いから目覚めさせてくれたりする存在に救われるものです。
悟りというものは、器が空っぽになったり眠りから覚めたりすることに似ています。道は一緒に歩み続けているものであり、道は生死問わずにみんな循環を続けているともいえます。
私たちの先祖は死者も共に歩んでいくという死生観をもっていました。たとえ肉体が失われてしまったとしても、魂として生き続けて別の次元ではいつも同じ道のどこかを歩んでいると感じていたのでしょう。
二度とないこの今、この世の道ではまだできることがあります。引導を渡すような機会はなかなかありませんが、宿坊、守静坊の甦生によってその機会が得られることに有難く思います。
真心を籠めて、取り組んでいきます。