私の運営するBAの神社は、秩父神社から勧請した妙見さまをお迎えしています。また郷里の多田の妙見神社からも妙見さまをお迎えし合祀しています。もともとはじまりの地から経由して分かれた神さまをもう一度、この地で結う和して一つにしたのがこのBAの妙見神社ということになります。妙見というのは、妙を見るという字でできています。一体、妙とは何か、そして何を見るのかということです。
これを説明するのに「五眼の徳」という言葉があります。このことは妙見さまの神徳を理解することにおいてとても重要な言葉であることがわかります。
もともと私たちの人間の認識のはたらきを眼になぞらえると五種に整理できるといいます。仏陀はこれを肉眼(にくげん)、天眼(てんげん)、慧眼(えげん)、法眼(ほうげん)、仏眼(ぶつげん)があるといいました。
もともと「智慧」そのものを神格化したものが妙見さまです。その智慧の眼を持つ存在をあらゆる佛の母といわれる佛眼尊として、五眼の徳をもった佛智を象徴としました。
この五眼の徳は「大智度論」というお経の中で紹介されています。
「肉眼は近くを見て遠くを見ず、前を見て後ろを見ず、上を見て下を見ない。天眼は、前後、上下、遠近は見るが物の実相を見ない、慧眼(けいがん)は、真実を見抜き智恵を得ているがその智恵が自分一人の内にとどまっている。法眼は、自分や人々のそれぞれの立場において何をすれば良いかを見ている。佛眼は、万物の普遍性に通じている。」
この5つの眼を一つ一つ解説していますが、その中の一つだけでは真実は見えないということです。本当の真実を見るためには、この五眼のすべての徳、「妙眼」が必要であると説いていると私は思います。
なぜあらゆる佛の母といわれるのか、小さな迷いから覚めて真実を知ることで佛の徳が甦生するからです。人間は、認識と時間というものの中に生きています。そしてどうしても知識が増えてきては智慧を忘れていきます。せっかく得た智慧も、それが経年変化でくすんでいきますから磨き続けていく必要があります。しかし磨いていても、どうしても知識が邪魔をしてきて私たちは智慧の本体が分からなくなっていくものです。
智慧を甦生させるというのは、本来のありのままの姿に原点回帰させる力があるということです。私の甦生業もまた同時にこの智慧に帰着します。この地に妙見神社を建立したのは神縁ではありますが、智慧を砥石にして磨き甦生するための大切な教えがあってのことです。
これから歴史も人間も、未来も甦生させていきます。子どもたちにいつまでも妙見の智慧が伝承されていくように私自身もその五眼の徳を磨いていきたいと思います。