英彦山に関わりはじめたことで山のことを深める機会が増えています。今の時代は、山は一つのスポーツのようになっていますが古代から日本では山は信仰の原点であったことは間違いありません。
山に入るということは、信仰に触れることでもあり、登頂するというのは拝山するということであり神域に入り修験を積むということでもありました。俗世から離れた、深山の聖地で自己を鍛錬し、自然と調和する力を顕現させていく。それを神人合一、山人一体として山伏や修験者たちが悟り、それを里で暮らす人たちに恩恵を与えていました。
もともと仏教でも、本山や山門、出家などという言葉もありますがこれは山に入るという意味で俗世から距離を置いて暮らしの中で聖人に近づいていこうとするものだと思います。
山という言葉の語源は、不動の意味で止まるという意味のヤムから来ているということを聞いたことがあります。じっとして動かずそのうえで、全てを守るという存在でもあります。不動明王が祀られていることも親和性があるように思います。
よく考えてみると、私たちの水をはじめいのちを育むものはすべて山から降りてきます。山があって生命が保たれるのだから、その生命を産み出す山を尊敬して崇拝するのは当たり前でもあります。
信仰のはじまりは山からというのは、それはいのちを産み出しているということがあるのかもしれません。山には、母樹がありその木によってまた森が広がります。そして里での生活を潤していきます。もしも山に水も木もなければ、里は潤わず荒野のようになります。
私たちが山を大切に守るのは、それが私たちの暮らしを永続的に守ることを先祖は知っていたのでしょう。
子どもたちに山の甦生を通して、自分たちが知らず知らずにいただいている存在に畏敬の念や信仰の真心が伝承されていくように丁寧に甦生していきたいと思います。