「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」という言葉があります。
これは玉川大学の玄関に彫られた格言です。これは理工系の者が陥りやすいといわれる、唯物的な考え方にならないようにとの警鐘として残されているそうです。その玉川大学のHPにはこう紹介されます。
「科学技術の進歩は、明と暗の両面を持つ。平和利用されれば人間社会を豊かにし、戦争に利用されれば多くの人間の命を奪う。この言葉には、“人間至上主義的・科学万能主義的な考え方や教育が、人の姿をした悪魔をつくっているのではないか。科学技術を学ぶ者も、人間を超越した存在を知り、神を畏怖する心を持った人でなくてはいけない”との、創立者小原國芳の強い願いが込められている。」
この神を畏怖する心を持つ、つまり謙虚であることを学ぶという意味でしょう。本来の学問というものは、学べば学ぶほどに畏怖に近づいていくものです。自然の偉大さ、今、私たちが存在していることへの有難さ、科学というものを真に理解するとき私たちはその偉大な存在、畏怖に気づくように思います。
すると自然を征服しようと傲慢にはならず、自然に学び自然と共生していく謙虚さを学び直すように思います。
私が運営するBA(ブロックチェーンアウェイクニング)は、先人たちの大切にしてきた日本人がどのようにその自然への畏敬をもって技術を学び磨いてきたかを身近に感じながらこの時代のテクノロジーの活用を原点から考え出せるような環境があります。
現代は、科学技術によってさまざまな環境問題が引き起こされています。フロンガスやダイオキシン、マイクロプラスチック、列挙すればきりがないくらいあります。善くない理由よりも人間にメリットがあれば、すぐにそれを認可して標準化されます。しかし、一度、そうやってはじめてしまえばやめることはできません。産業が複雑に絡み合っていますから今更やめることはできないのです。それを代替えでやろうとしますが、本当に最初の始まる前になるわけではありませんから対処療法ばかりしているだけで根本的には解決しません。
科学技術は最初が肝心であり、始める前に終わりをよく考えて取り組む必要があるのです。日本人のむかしの科学技術はほとんどが自然に還るものでできていました。つまり循還型であったということです。今の循環型は、人間の都合の循環であり自然循還ではありません。
自然を尊敬し、畏敬の念や畏怖の念がありませんから好き勝手に技術を悪用することも、後先考えずに使ってみようとリリースするのです。そうしているうちに、今の核兵器や毒ガスのように悪魔の技術が誕生してきます。誕生したら、使わないとはならないのです。
だからこそ、私たちは人間を教育し、自然と共生する人間を育んできたように思います。これは別にパソコンなどの機械を開発しないというわけではなく、謙虚さを学び、そのうえでこの科学技術をどれだけ自然の理にかなったものにするのかと追及していくということです。
そのためには、先人が残してくれている本物に触れることでもあるし、自然の篩にかけられても残っているものの仕組みやその思想を学び直すことだと私は思います。
学校で学べないものをどう学ぶのか、つまりどう知恵を学び、徳を磨くのかが重要になると思っています。
この時代、なかなかこんなことをやる時間がない。即席技術者を育成して世界との競争力を上げたいというニーズはありますが長い時間をかけてじっくりと人間を育成しなければ本物の技術者は誕生しません。
友人の遺志を守り、私の場からそういう人物を増やしていきたいと思います。