現在の資本主義経済は、ざっくりと観ると大量生産と大量消費で成り立っています。それも大量生産するのが後進国で大量消費するのが先進国という構図です。消費が低迷すれば、生産も低迷します。すべて表裏一体で、その両輪が経済ということになってきています。これはお金の流れのことです。
しかし同時にお金には換えられない流れというものがあるように思います。それは目には見えませんが、徳や知恵などといったものです。これにも同じように、生産と消費があります。しかしここでの生産は、物が増えるというような生産ではなくむしろ削り磨きあげていくような一見これは消費ではないかと思えるようなことが生産になっています。消費もまた徳を積むというように消費したはずが積んでいくかのようなものになっています。これは現代の眼に見える物の世界とは逆回転しているものです。
循環というのも表裏があり、万物はその表裏によって一体になりバランスとととのえています。円環のように丸く、すべてのものは何かが減れば何かが増える、それはちょうどいい真ん中の調和をとるような仕組みではたらいているからです。
このハタラキそのものが経済であり道徳です。目に見えるところは経済といい、目に見えないところを道徳といいます。表が経済、裏が道徳、この表裏一体のところに真のハタラキがあると私は思うのです。
このハタラキをどうやって充実した循環にしていくことができるか。それは仕合せが中心です。つまりは自分が喜び、みんなが喜ぶように循環していくことがもっともハタラキを充実させていきます。
これを私は暮らしフルネスの実践の奥義であると思っています。
ある人は利他により苦労をします。しかしその苦労がもしもすべて喜びになっているのなら、その苦労は全体の喜びにもなっていきます。逆に自分のことだけを考えて、自利にばかり貯蓄していくと苦労の種類が変わってきます。もともと苦は楽の種、楽は苦の種というように苦楽は同一のものです。そう考えると、そのどちらも喜びになるような心の持ち方や生き方ができれば先ほどのハタラキをよりよく循環していくことができるのです。
そんな理想論とか綺麗ごとなどと思うかもしれません。しかし、実際にこの世の中は目に見えないところのハタラキの御蔭で自然災害も減り、気候変動も穏やかになり、すべての動植物はじめいのちが穏やかになっていきます。ハタラキを失えば、地球は喜びませんからあらゆる天災や人災がこの世に巻き起こます。
これは歴史が証明していますし、文明が滅ぶのもまた文化との調和が崩れたところに由るのは明白です。今さら私一人がやってもどうにもならないといわれるかもしれませんが、そんなことはありません。
ハタラキというのは、気づいた人から変わっていきますしその一人の心の中の変化は瞬く間にこの世に広がっていくものです。二宮尊徳もまた心田開発のなかで同じことを述べています。それが報徳思想の根源でもあります。
どの時代も似たようなもので、衣食住足りて礼節を知るように、徳もまた清明心足りて信仰を知るという具合なのかもしれません。私も文章では振り返り整理するために書いていますが、実践はまだまだ未熟で精進していくしかありません。しかしこんな私でもやろうとするのなら、みんなで力を合わせれば何かができると信じています。
子どもたちの未来のためにも力を合わせて徳の循環を取り組んでいきたいと思います。