むかしの話

むかしの話といっても、どれくらいむかしのことかは人それぞれで定義が異なります。ある人は、100年前のこと、またある人は、はじめて伝承されたこと。またある人は、少し前のことを指したりもします。このむかしというのは、今まで辿ってきた記憶でありそれをどれくらい憶えているかということでもあります。

その記憶は、本来は今の私たちが生きているのですから知識では覚えていなくても知恵としてはいつまでも遺っているはずです。よく世の中には不思議に前世の記憶を持っている人もいるくらいですから、身体は変わっても魂のような意識によってそれは器を換えては遺っているものです。

なので私にとってのむかしとは、何か対立しているものではなくそういうむかしがあったということになります。なのでむかし話というものは、みんなでむかしの話を辿っているということです。そこには正解はないし、否定もありません。それぞれがみんなで知恵を出し合ってむかしのことを思い出していけばいいということになります。

しかしこのむかしのことを知識として教えているとそこに大きな矛盾が発生します。これは少し深めればすぐに違和感を感じるものですが歴史を偽ったり、歪めたりして知識でそれを本当のことと教えてもそれぞれのああ憶とは異なってきます。本来は、改ざんできやしないことを改ざんするのですから整合性が取れなくなってきます。

その違和感は、むかしを知恵として自覚する人たちやたまたまその記憶が蘇って思い出した人たちに気づかれてしまいます。そういう人たちが、本来はこうであったと語っても知識としてのむかしを知っている人たちからすればそんなはずはないとなるのです。

しかしそこには一つの違和感があるはずです。この人のむかしだけが一つの真実かというものです。人間はみんなで記憶する器です。全体で記憶を分け合い、分かち合いいつまでも憶えてそれを今に伝承していく生き物でもあります。その記憶を生きているのが人間です。ですから記憶が改ざんされるというのは、人間の本来の役目を果たさせないということになります。

すると人は天命が失われ、自分という本来の自分を生きることができなくなります。だからこそ先祖から今、そして未来の子孫まで一貫した縦のつながりをもって私たちは自己を知り、根をはり養分を得ていのちを咲かせ実らせることができるのです。

本来の私たちの生き方は、このむかしとの付き合い方に由ります。

子どもたちにむかしのことを思い出して、自分自身でいられるような環境をととのえていきたいと思います。

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