先日、仲間たちと一緒に無農薬のもち米で餅つきをし鏡餅をつくりました。その鏡餅を、それぞれのお祀りする場所へ調えていきました。年々、ご縁を戴くところが増えて御餅の数も増えていきます。しかし一年に一度、感謝を忘れないように改めて祈りを実践するのは有難い機会になります。
それは道具にも同じことがいえます。お餅つきや鏡餅をするときに出番がくる道具たちです。日ごろは仕舞われたり、別の役割を果たしています。その道具が、活躍する日でもあります。
例えば、木臼や杵というものがあります。これは5年前にご縁があってうちにやってきたものですが、非常に古い歴史を持っている木臼と杵です。この木臼は神様の木としても有名な欅が使われています。この欅は古名で「ツキの木」とも呼ばれていてこれは神様が依り代になる聖なる樹といういわれがありました。神社のご神木に欅が多いのはこのためです。
その神様が依り代になるような木臼はむかしからとても大事に祀らてきたといいます。私も聴福庵ではいつも目につくところに配置していて、その存在をいつも確かめてお餅つきが来るのを楽しみにしています。
この木臼ですが、桶谷町の文化財保護委員である伊藤源治氏が分かりやすくご紹介されています。要約すると、この臼や木は弥生時代から存在し、あらゆる雑穀の製粉脱穀精白に使われました。暮らしの中で、なくてはならない道具であり今のガス、水道、電気と同じくらい日常的な役割を果たしたものです。その臼と杵は家を象徴するもので、冠婚葬祭でも用いられたといいます、たとえば、葬儀では出棺のときに空臼を搗きます。故人の、この世の家からの永遠の別れを意味したそうです。そして日常で空臼を搗くことは縁起が悪く、禁忌とされました。他にも、結婚式では餅を搗きます。嫁ぎ先の家の土間に臼を二つ並べ、その花嫁が重い臼を退け困難を乗り越えて婚家に入るという儀式もあったといいます。このような臼と杵ですから、暮らしの中では特に大切に取り扱いしめ縄をし雨ざらしなどさせず、上に物を置く事などもせず、常に伏せて置いたといいます。そして最後に使えなくなった野に捨たりゴミのように燃すことはなく、供養をし家中のかまどで燃すか、一族で分けたとあります。常にこの臼と杵は神の宿る、聖なる道具と意識されて使われたそうです。
よく考えてみると、鏡餅もまた神様が宿るものです。お米にも宿ります。すべて神様が宿っていると意識してお餅つきは行われたのでしょう。今の時代、自動餅つき機があったり便利に大量生産されています。しかし、そこに神様は宿るのでしょうか?私たちが神様と意識することで神様が宿るというのは、すでに量子の世界でも事実が明らかになってきています。
私たちの意識は、単なる妄想ではなく心というものが存在する証拠でもあります。真心を籠めて取り組んだことは、不思議ですが心を通じて伝わっていくものです。むかしの人たちを理解するには、心を尋ね、心を学ぶ必要があるように思います。
心を甦生して、子孫たちへ大切な知恵を伝承していきたいと思います。