英彦山の創建は仏教公伝(538年)より前の531年開山は中国北魏の僧・善正上人と伝えられてます。修験道の始祖である役行者もこの地で修行したといわれ九州西国霊場を開いた法蓮上人を中興の祖とされてます。法蓮上人は宇佐神宮寺の初代別当を務め宇佐や国東に神仏一体の信仰を広めたことで知られその功績により嵯峨天皇より寺領40町と、勅願寺の称号を賜わりました英彦山は「日の御子」の在わす神聖な山として「日子の山」と呼ばれていましたが弘仁10年(819)嵯峨天皇により「彦山」と改称されました。その後、江戸時代になり霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたといいます。古来から神の山と呼ばれた英彦山には英彦山伝説がありました。この英彦山伝説を備忘録として記します。
彦山は善正が山を開き、忍辱が後を継いで、神仏の教えを広めたが、そのあとを継ぐ者がなく、ながく荒れるにまかされていた。やがて、法蓮という僧が出て忍辱の教えを興したので衆徒は千人にのぼり、中興の祖といわれる。法蓮は宇佐氏で、宇佐郡小倉山で苦修連行し、兼ねて医術をおさめて多くの人びとの病気を直した。その徳風は文武天皇の耳にも達し、大宝三年(七〇三)に詔を発して法蓮の功績に対して豊前国の野四十町を賜った。(「続日本紀」にある)。
ところが、法蓮の真の願いはまだまだ大きく、このあたり一帯の人びとが豊かに暮らせることであった。そこで、如意宝珠を手に入れ、その力で広く生活に悩んでいる人びとを救おうと考えたのである。するとある夕方のこと、空中から声があって、日子山の窟に摩尼珠があり、神が出し惜しんで守っているが、熱心に求むれば得ることができるであろうという。法蓮は喜んで山中を回ると多聞窟というのがあった。守護神は毘沙門天の化身であり、福徳の名が四方に知られているので、そう名づけられたものである。窟の岩は光り輝き、木の枝はおもしろく、流れ出る水は円く流れて岩をうるおしている。
法蓮は、この窟の中に宝珠が必ずあるので、それを得ようと、一二年間一心に金剛般若経を読誦し、三所権現と八幡大神に祈願し続けた。それで、この窟を般若窟と呼ぶようになった。それより先、大宝元年(七〇一)八幡大神は唐に渡り三年経って帰って来たが、小倉山に登り地主神の北辰に対して「自分はここに住んで、あなたと一緒に人びとの利益をはかりたいが、どうだろう」とたずねた。北辰は承諾して「西方に山があって、その山の彦山権現は岩窟に玉を埋め、一方の金剛童子に守護させている。その玉を求めてきて、人びとを窮乏から救いなさい」ということであった。
八幡大神は彦山に向う途中、香春明神に会って相談した。すると香春明神は「岩窟の玉のことはよく知っている。今は法蓮という者が玉を得ようとして修行している。彼に頼みなさい」という。八幡神はさっそく老翁に化けて般若窟に出かけた。法蓮は老翁に会って、神の化身であることを知っていたが、「どこの人か」とたずねると、老翁は「近くの年寄りです。あなたの弟子にしていただきたくて来ました。しかも、あなたにお願いがあります。」と答えた。法蓮が「何ぞや」というと、老翁は「もしあなたが玉を手に入れたら私に下さい。他に何も望みません」というのである。法蓮はその願いを受け入れた。
法蓮と老翁はますます修行を積むと、予定の一二年にならないのに、霊蛇が玉を握り岩窟を破って現れ法蓮に与えた。法蓮は両手で衣の左袖をひろげて押しいただいた。この窟を玉屋というのはそれからのことである。それ以後この岩窟の穴からは、常に清水が湧き出て、どんな干天でもかれることはなく、体にひたせば病気は治り、飲めば寿命は延び、天下に異変があるときは必ず濁るというのである。
法蓮は、この玉を得たのは彦山権現の賜と考え、まず上宮に登り、次いで宇佐に行って神徳に感謝の意を表しようとした。二〇余町ばかり行くと、老翁がひざまずいて「宝珠を私にください」という。法蓮は与えるには惜しいと思う気持があり、ことわった。老翁は怒って「僧が約束を破るとは何事か」とののしったので、そこを師忘れ坂という。それでも法蓮は与えたくない。そこで老翁は法蓮に向かって、実際に与えなくてもよいから「お前にやる」といってくれと頼んだ。法蓮は黙っていることができなくなって「お前にやる」といったところが、玉が飛び出して老翁の手中に落ちた。
老翁は望みがかなえられたと、喜びいさんで走り去った。法蓮はたとえ神のすることでも玉を奪い返そうと決心し、はるか前方に向かって火印を結ぶと、猛火が四方より燃えあがり老翁は逃げるところがない。したがって、その地を焼尾という。ところが老翁は、空中に舞いあがって去った。法蓮もまた飛んで、下毛郡諌山郷猪山(大分県山国町)の頂上から、大声で老翁の悪口をいったので、その声は伊予国の石鎚山まで聞えた。さすがの老翁もこれには閉口し、金色のタカとなり、一匹の黄犬をつれて猪山まで引き返して来た。そしていうには、「私は八幡である。昔は三種の神器で万民を安らかに暮らせるようにしたが、神となった今では、この一つの玉で百王を守りたいので許してもらいたい。私がこの玉を得たら、宇佐宮に安置して地鎮とし、寺を建てて弥勒菩薩を祀り、あなたを寺の主にして恵を広くいつまでも続けたい」と述べた。法蓮も異存があるわけでなく、石の側に立って和解した。それで、その石を和典石という。
これから本格的に英彦山の法蓮上人の足跡を辿ってみようと思います。