陰翳というものがあります。この陰翳の翳の字は、手や物などでおおうこと。おおって陰にすること。また、そのもの。あるいは、おおうように手や物を上や前に置くこと。また、そのように置いたものとあります。そして陰という字は、「丘」「雲が太陽を覆い包み込む」の象形から成っています。 そこから「くもり」や「かげ」の意味で使われるようになったといいます。
この陰翳という言葉で有名なものは『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)というものがあります。これは谷崎潤一郎の随筆でまだ 電灯がなかった時代の今日と違った日本の 美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風 雅 の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたものです。
私がよく陰翳を感じるのは、古民家での暮らしです。常に薄暗いつくりになっていて、どこを観ても陰翳が映り込みます。わかりやすいものは、障子です。障子から光が透けて物に反射するとき私たちはその陰翳を感じ取ります。ぼやりとしたうす暗い中に、何かの存在が浮き上がっています。
私はこれを中庸であると感じています。
はっきり見えない、そして見えないわけでもない。その二つの中間にあるもの、それが陰翳なのです。私たちは目を強くすればするほど、見れば見るほどに物質界の影響を強く受けます。そして目を閉じれば閉じるほど今度は霊界や幽界といった想念や空気の影響を受けます。しかし陰翳の中に入ると、その両方が見事に合わさって感じられるものです。強く見すぎず、見えないわけではない。こういうものの感じ方や見え方が私たちの精神を磨いてきたように思います。
私が甦生するものはすべて陰翳が入ります。それは観に来てもらえれば一目瞭然です。その理由は、いつも私はそのもののいのちと対話し、そのものが甦生するように取り組んでいるからです。
これは生き方であり、実践でもあります。徳というものもまた、その陰翳の中に存在するものです。陰翳は、決して影ではない。真の陰とは、本体を映し出すものです。その本体とは、磨き抜かれた魂のようなものです。
この世のすべては季節をはじめ、様々なご縁と結びついて陰翳が顕現しています。その陰翳を如何に感じて大切に生きるかは、日々の暮らし方によります。先人の生き方に倣い、暮らしの中の知恵を集めて子孫へと伝承していきたいと思います。