「さるかに合戦」という日本の民話があります。幼いころに何回も読んだ記憶がありますが、よく考えてみるとこの話は仇討のことに注目されますがそれだけではなく、近視眼的なずる賢いものと、長期的にみて本質的であろうとしたものの対比からの知恵であることがわかります。話のあらすじはこうです。
「蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿が、拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、「おにぎりは食べてしまえばそれっきりだが、柿の種を植えれば成長して柿がたくさんなりずっと得する」と猿が言ったので、蟹はおにぎりと柿の種を交換した。蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えた。種が成長して柿がたくさんなると、そこへやって来た猿は、木に登れない蟹の代わりに自分が採ってやると言う。しかし、猿は木に登ったまま自分ばかりが柿の実を食べ、蟹が催促すると、まだ熟していない青く硬い柿の実を蟹に投げつけた。硬い柿をぶつけられた蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。カンカンに怒った子蟹達は親の敵を討つために、猿の意地悪に困っていた栗と臼と蜂と牛糞を家に呼び寄せて敵討ちを計画する。猿の留守中に家へ忍び寄り、栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると、熱々に焼けた栗が体当たりをして猿は火傷を負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと今度は蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとした際に、出入口で待っていた牛の糞に滑り転倒する。最後に屋根から落ちてきた臼に潰されて猿は死に、子蟹達は見事に親の敵を討ったのだった。」
蟹は、おにぎりはそれっきり、しかし種を植えればそれが長い年月を経て多くの実をつけるとその時のおにぎりには手を出さずに種を植えます。猿はそんなこよりも目先のおにぎりの方がいいと種は蟹に渡して植えさせて自分はおにぎりを食べます。数年後に柿の実がたくさんできたのをみて猿はそれを横取りにきます。そして青い柿を投げつけて殺してしまいます。この続きはあらすじの通りです。
しかし私はこれは本来は今の時代だとまた少し変わる話になっているように思うのです。時代と共にこういう民話は改善されたり改良されました。例えば死んでしまうのではなく、反省にしようとしたり、登場人物が換わったりします。
今はどうでしょうか、私なら柿の種を植えた蟹をみてみんなが大切なことに気づいてみんなで柿を見守りその実を分け合うことで種がまた周囲に広がっていくという明るい話です。
猿もまた、少なくなってくるおにぎりに気づいて、その貴重なおにぎりも分け合い、未来のために種も植えるようになり周りも自分も仕合せになるという物語です。子蟹たちは、それぞれの場所で同じように種を植えて育てる指導者になって世の中にずる賢いことをするものが減って安心する世の中になったという結末です。
この時代、ある意味でみんな近視眼的におにぎりを奪い合う構図です。徳の循環や、ずっと先の子孫のために恩送りをすることなどは二の次です。でも世の中には、知られていないだけでそういう生き方をする人物はたくさんではないですが必ず一定数います。今は、ずる賢い時代に翻弄されて大変かもしれませんがそんな中でも普遍的に永続する暮らしのために陰ながら精進しています。
そういう人たちに恥じないように、私もここで徳積循環の世の中に回帰するように試行錯誤を続けています。それはすべて子どもたちの世界に先人たちの遺してくださった恩徳を伝承するためです。
時代の変化によってむかしの当たり前は完全に否定され、普遍的な道を歩む人たちは迫害を受けることもあります。しかしまた時代が変わり、元のようにもどっていくものです。その時代をどのような生き方を貫いて耐えていくか、さらに深い願いや祈りでかじ取りをしていくか。いのちが試されます。
引き続き、いのちの試練を味わい楽しみながら明るく前進していきたいと思います。