自然と共に

粘菌という単細胞生物がいます。この粘菌とは、約6億年前に誕生したアメーバのような生命のことをいうといわれます。 変形菌、これは動菌ともよばれ、 真核生物の中で原生生物界 (protists)に属し、その粘菌のほとんどは腐朽した樹木や切り株などに生育しているといいます。ただ菌という名がついていますが実際にはミクロの動物のような存在で、食べ物はバクテリア(細菌)です。

一つ一つの細胞は10ミクロメートルと小さく、核が分裂して大きな変形体となり食べ物を求めて動き回ります。そして食べ物がなくなると、胞子を飛ばすために子実体となって形を形成します。

山の中、枯れ葉や枯れ木、あるいは泥炭のそばにこの粘菌はあります。よく考えてみると、すべての生命は生まれながらに生きる力を持っています。本能で何を食べて生きていくかを知っています。どう動けばいいかもわかっていて、自然に生きようとします。これは脳があろうがなかろうが関係がありません。

現代では、生きることは何か科学的に証明できるものによって生きているかのように分析します。心臓が動き血液が内臓で循環するからだとか、自律神経が働いてコントロールできているだとか、理由をつけます。

しかし実際には生きているものには、理由などなくただ生きています。このただ生きているだけの存在からなぜ生きているのかを探ることはできます。もっともミクロでもっとも原始的であればあるほど、もっともマクロで宇宙的なものを理解することもできるかもしれません。

有機物であろうが無機物であろうが共通するもののを観続けていると、そのいのちの存在に気づくように思います。それは古代から先人たちが直感してきた存在です。

この世の中には、役割というものがあります。それは身体を観ていてもわかります。髪の毛一本、皮膚の皮一枚、唾液から糞尿にいたるまですべて役に立ちます。何の役に立つのか、それは全体の役に立つのです。

そもそも役に立つとはだれかだけのためになるのではありません。奴隷のように使役され自由を与えてもらって役立つことを教育されますが、本来は生きているだけで全体の役に立ちます。もっといえば、存在しているだけが役に立つのです。それが観えないのは、全体が観えないからです。人間は、目先の小我や損得、あるいは自分、自分たちを中心にしかものを考えていません。一方、粘菌をはじめすべての生命はごく自然に全体の一部として生きています。だからわかるし気づくのです。

人間がわからないのは教養がついて思い込むからで実際には本能は自覚しています。その証拠に、自然というものは生死を繰り返すからです。循環を已むこともありません。

水がなぜ流れるのか、風はなぜ吹くのか、人はなぜ呼吸をするのか、なぜ生きて死ぬのか、死んだらどうなるのか、なぜ眠るのか、いくらでも好奇心は本能への探求を已めません。面白い世の中を体験するなかで、人は自らの天命やお役目を理解していきますがそれは自然界に倣うことの方が近道かもしれません。

自分にしかない役割を発見できることが仕合せなのは、人間であるが故の不幸の刷り込みかもしれません。本来の自然は自然に聴くことからはじまります。知識を得ても知恵は失っていくのでは人間としての発展とはほど遠いように思います。

子孫のためにも、自然と共に天命を開放していきたいと思います。

 

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