昨日、秋月和紙の井上さんと一緒に和紙の原料であるミツマタに法螺貝を奉納してご祈祷を行いました。これは英彦山に代々伝承されているミツマタの和紙のお札を甦生するためでもあります。
現在は、和紙でもないパルプ紙に機械でプリント印刷したものがお札になっているものが多くあります。本来は、人の手を通してみんなで心を合わせて祈るようにつくられたものがお札でありお守りとなりました。
手から入るいのりの力を信じていて、そこに数珠繋ぎのようにみんなが心ひとつにして取り組むことで不思議な力が宿るとも信じていました。これは決して偶然や奇跡などではなく、私たちはこの手を通して心を投影していくことができます。丹精を籠めた手料理や手仕事、あるいは芸術にいたるまで私たちは心を手で象ることができるのです。
むかしは、誰か職人が一人でも欠けると手仕事が止まってしまうことがありました。例えば、このミツマタであればそれを育て収集する職人、それを和紙職人にわたり、墨汁や朱肉などをつくる職人、そして祈祷をする山伏や神官など、みんなが力を合わせて取り組むことでその祈りが通じていきました。
現代はなんでも効率優先になっていますから、見た目ばかりデザインしたものを重宝して中身は形式だけ少し取り入れるくらいなものです。さらに機械化され大量生産して安価で手に入れられますが、本来は手を抜いてはいけない工程にまで便利さが導入されてみんなの力が入る余地もありません。
祈りというものは、本来はみんなで心を合わせて行うものです。それはみんなが心ひとつにすることで、お互いが関係しあい、持ちつ持たれつの信じる心が顕現していくからです。
心を籠めてあるものは、わかる人たちにはわかります。そこには、単なる物ではなく、心が宿るからです。
手作りや手作業というものを大切にする生き方こそが、本来の私たちの暮らしの道具を磨いてきました。時代が変わっても、生き方や暮らし方を磨くことは先祖への尊敬と子孫への繁栄を願うためにもとても大切なことです。
子どもたちや子孫のためにも、今をさらに善くしていくための努力を具体的に形にして譲り遺して伝承を甦生させていきたいと思います。