暮らしの中の遊行 1

念仏という言葉があります。この念という字は、今の心と書きます。もともとのこの「念」は、心に思うことを意味するサンスクリット語「smŗti」の漢訳だといわれます。仏という字は、サンスクリットのbuddhaに「佛」という字を新たに作成して音写したともあります。これは「人」+「弗」(音符)の形成文字であり、この「弗」は、「勿」「忽」「没」「非」などと同系の言葉でもあると。そして仏という字は簡略化されたものとも言われますが、古来からあったともいいます。

つまり意訳ですが、この念仏というのは今に集中しすべてを捨て去るという意味にもとれるように私は思います。つまりは、自然にあるすべてと一体になり自然そのものと結ばれる境地に入るようにも思います。

自然というものは、宇宙でもいいし地球でもいいです。人間の妄念や妄想を取り払ったものです。人間は妄念や妄想に執着すると、鳥の鳴き声もきこえず、季節の変化にも気づきません。人間の妄念や妄執に振り回されていると、毎日はただ忙しさに呑まれて流されていきます。気が付くと、保身や心配事ばかりで今に集中することができず、未来と過去を行き来するばかりです。

苦しみは今ではないこと、どうにもならないことに時間を使い、そのために不安や心配ばかりが増えていきます。特に今の時代は、情報化社会で仮想空間までつくりあげその妄執や妄想を発展させていきました。頭でっかちになっていると、本来の自分という心と自然と一体になったような感覚が失われまるで何かにとりつかれたように生気を失ってしまうものです。

900年代の遊行僧に空也上人という方がいます。この方の言葉で私はとても尊敬しているものがあります。

「山川の末(さき)に流るる橡殻(とちがら)も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」

これは栃の実が川に流されてどこにいくのかわからなくても、身を捨ててこそはじめてどこかにたどりつくだろうという様子を詩にしています。今にも溺れそうな執着の渦の中であっても、思い切って来たものを選ばずに身を捨ててしまえば溺れずにどこかの瀬にたどりつくこともあるだろうという境地です。

人は、あれこれと自分の思い通りになる人生を歩もうとするものです。それがもっとも争いや苦しみを生むとわかっていてもやめることができません。しかし、思い通りにならない人生の中にこそ、本当の自分らしい人生があると身を捨ててしまえばそこに自然に道が開けるというものがあるように思います。

私のこのブログのかんながらの道というのもまたそういう道のことをいいます。私は何かをブログで教えたり知識を得たものを忘れないためにだけ書いているのではなく、こういう生き方をした人がいることで誰かの元氣や仕合せに結ばれていけばとも願って綴っています。

ご縁と結ばれるものを丸ごと信じて選ばない生き方こそが、阿弥陀如来さまの達した境地なのかもしれません。私はお経のことはまだ調べてないし読んだことはありませんが、小さいときから南無阿弥陀仏とは唱えたものです。気が付けばその結縁をいただき、暮らしの遊行の道が開かれました。

本当にありがたいことす。

本日から、人生で初めて英彦山から国東までの「暮らしの中の遊行」を開始します。共に歩いてくれる無二の友と同行二人で歩いていきます。多くの方々に見守られ、この時代でも徳が循環しあう経世済民の世の中を祈り、そして大切な子どもたちを守るために実践をはじめます。

この時がはじまりだったといわれるようなものになるかもしれませんが、今の心、念仏と共に祈り歩いていきたいと思います。

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