徳の余韻

むかしから水路を引くというのはとても大きな事業だったことがわかります。今では機械も設備も方法も増えてあまり河川工事についての関心がなくなりましたが、かつては河川が氾濫するたびに農民をはじめほとんどの人たちの暮らしが破壊されました。

私が甦生している飯塚市幸袋の古民家も、何度も川が氾濫し家が浸水した形跡があります。2階にはいつ川が氾濫してもいいようにと五平太船が括りつけてありました。むかしの人たちは自然の猛威に対して、なすすべがなく苦労が多かったことがわかります。

そんな中、浮羽とのご縁から五庄屋物語というのを知りました。むかしの道徳教育の教科書(協同)にも掲載されていたそうです。そこにはこう記されます。

「久留米〔現福岡県久留米市〕の東、筑後川の流れに沿う地方では、川よりも高所に田畑があるため、水を引くことが不便で作物が出来ず農民は貧しい暮らしをしていました。寛文3年〔1663年〕にこの地域の庄屋五人(栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞)が、村々の貧困を救う方法はないかと考えた末、筑後川に大きな堰を設け掘割を作って水を引くより他はないと決しました。しかし大河である筑後川に堰を設けることは莫大な費用がかかる大工事であるため、財政難であった久留米藩(有馬藩)は彼らの申し出をなかなか認めようとはしません。そこで五人の庄屋達は費用は自分らの身代を潰してでも自分らで賄い、また工事が成就しなかった場合には自らの命をもって償うと血判することで久留米藩の許可を得ることに成功しました。この計画に賛同し協力しようとする他の庄屋達はいるものの、中には堰建設により洪水の恐れが生じるという理由で反対した庄屋も多々見られました。ついに大工事が始まりましたが農民達は「五人の庄屋を死なせてはいけない」と言って懸命に働き計画通り大きな堰が完成し、村々に筑後川の水が行き渡るようになりました。すると工事に反対していた庄屋達は、堰の水利にあずかりたいと願い出てきました。最初から五庄屋に賛同していた庄屋達は、彼らは工事に反対していたのだから我々の村に水が来るまでは差し控えさせるようにと申し立てました。が、五人の庄屋は「この工事はもともとこの地方のために起こしたことなのでその水利はできるだけ広く受けさせたい」と答え、反対していた庄屋の村々にも水を分け隔て無く与えるようにしました。この地域が収穫の多い豊かな土地になったのは、この五人の庄屋をはじめ村々が心を合わせ必死になって尽くしたおかげであります。我々の住む市町村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けてきたのです。協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を繁栄させる基であります。」

実際に筑後川に来てみると、その雄大な流れと広さに驚きます。この数年、豪雨災害で何度も氾濫していますが近隣の山々から流れ込んでくる水は膨大です。それが有明海まで流れていくのですが、下流の方は水嵩も増えていくのもすぐにわかります。しかしこの河川は、扱い方次第では人間には大変な恩恵を与えてくれます。

偉大な事業というものは、目先の損得では行われません。だからこそ人は自分の身可愛さにそういう事業に反対するものです。遠大でさらに徳に関する事業こそ、余計なことはせずにこのままでいいとする人が多いものです。

しかし子どもたちや子孫のため、未来のためを思うと自分たちが犠牲になっても構わないという生き方の人たちが時代を超えて徳を推譲していくものです。

先人たちの遺徳を偲びながら、この浮羽で何ができるのか、よく省みて活動していきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です