本来の事業

昨日は、故郷の庄内中学校の生徒たちの有志が集まり鳥羽池のお手入れを行いました。具体的にはゴミ拾いや廃棄物の回収ですが一年でまたここまで溜まるのかというほどのゴミが溢れていました。生徒たちは明るくなんでこんなものを捨てるのだろうかと口々に話しながら清々しく片付けてくれて本当に有難い気持ちになりました。

ゴミの中には、かなりの大きさのものも多くよくこんなものをと思うほどの粗大ゴミもありました。私はもともと古民家甦生をはじめ、お山の周辺のお手入れもやっていますからゴミは慣れています。それにゴミをよく見つめることも多く、それが綺麗に片付いている景色も見慣れていますからそこまでの抵抗はありません。しかし子どもたちが誰かが捨てたゴミを真摯に片づけているのを見るとありがたい気持ちが先に出ますが同時にいたたまれない恥ずかしい気持ちも出てきます。

大人たちがやってきたことがゴミとして発生します。池をはじめ自然は黙ってすべてを受け容れてくれていますがそこには魚や鳥たちをはじめ様々な生態系が存在しています。なぜこんなものを生み出してしまうのか、そしてなぜゴミになってしまうのか、そこに今の人類が追い求めている価値を感じます。

2時間ほどみんなでお手入れしたあと、集まって少しお話をしました。

一つは、捨てた人がただ悪いではなくこのゴミを観てこれをつくったものづくりに関わる人たちは何を思うだろうかという話をしました。二つ目は、ゴミ拾いのメリットとして自分を磨くことの大切さ、観える世界が変わることで自分が変わることを話しました。三つ目は、故郷と繋がり結ばれる感覚、池が喜んでいることや故郷が善くなっていくことなども話しました。また桜の時期になると美しい景色があること、改めてみんなで取り組めたことに感謝しました。

今回のお手入れを一人でやったら3か月近くかかります。それを大勢いで取り組むから一日で終わります。自分たちの故郷の大切な場所を、みんなで守っていこうとする心に故郷の徳がますます醸成されていくのです。

子どもたちが取り組むことは小さな一歩ではありますが、大きな未来がある一歩です。

本来の事業というものはどういうものか、それは単に利益や売り上げが上がることや経済活動が拡大することや雇用が促進され税金が集まることなどではありません。むかしの日本の先人たちが行った事業とは、「子孫のために何を遺せるか」というものが本来の事業であったのです。今では名事業家と呼ばれる人たちは、効率的にお金儲けが上手い賢い人たちの代名詞になっています。しかし実際の事業家とは、徳を積む人たちの代名詞であったはずです。

時代が変われば価値観も変わり、言葉の表した意味も変わります。しかし時代が変わっても徳は変わらずいつまでも燦然と輝き、道をまた探り歩けば光が当たるものです。

引き続き、故郷の徳に見守られながら丹誠を籠めて事業に取り組んでいきたいと思います。

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