たまに鴨長明の方丈記を読み直すことがあります。800年前に書かれたものですが、今でも鮮明に想像でき共感できるものばかりです。あの有名な「 ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」の文章です。
この川の話は、水の話でもあります。私は古民家甦生をはじめ、歴史に触れる機会が増えてから余計に水を感じるようになりました。水というものは、とても不思議な存在ですが時にも似ています。そして空でもあります。どんなものとも融和し、姿はありとあらゆるものへ変化し、永遠に存在し続けます。清濁あわせもち同じものは一つとしてありません。
いのちの水とも呼ばれるその水の本質は、他の知識や知恵を得るよりも偉大な真理を持っています。人間は当たり前すぎるものには気づかないものです。水や光、火や土などもですがそのどれもがとても偉大なものですが人間社会においてはそれほど意識されません。なぜなら水は意識そのものですから気が付かないのでしょう。
方丈記の中にこのような一文があります。
「魚は水に飽かず、魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願う、鳥にあらざれば、その心を知らず。」
これは人間も元々は何がもっとも飽かないで何を願っていたかということ、人間が人間らしくあるのはどういうときか、その心を知っているかという問いでもあります。
鴨長明は、山中に小さな庵をむすびそこで淋しくても慎まやかな暮らしを通して安心立命の境地を発見しました。仏陀のいう無の境地に近づき、人間であることの喜びや仕合せを見出したように思います。もちろんずっとではなく、この方丈記を記したとき、その瞬間にその喜びを表現するときに魚や鳥が自然そのままあるがままを味わうように自分もそう人間として感じたということです。
自然というものは水のようなものです。老子は、「上善(じょうぜん)は,水の如(ごと)し。水は善(よ)く萬物(ばんぶつ)を利して,而(しか)も争わず。衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所(ところ)に處(よ)る。故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。」といいました。
水の生き方こそ人間の生き方、つまり自然の生き方であると。何が自然で何が不自然かを800年前にも感じて自分の生き方を記された書物には智慧が詰まっています。
引き続き、時代を超えた普遍的な智慧を暮らしの実践として伝承していきたいと思います。