全体最適

自然というものはバランスを保っているものです。その状態を健康といいます。この健康は誰かと比べての健康ではなく、自分にしかわからないものです。人間にも個体差がありますし動物や虫に至るまで、それぞれに異なった個性があります。この個性は健康も同様に、それぞれのバランスはみんな異なっているので自分でそれを実感するしかありません。そして自然と同様に、循環するなかで壊れたり直したりを繰り返しながらまたバランスを保ちます。

その人らしいバランスの取り方があり、生き方と同じく一つではなく無数にあります。健康が無数にあり病気もまた無数にあります。その人が持っているものを如何に調えていくのか。畢竟、すべては変化の真っただ中でその時々の全体最適を探していきながら上手にバランスを調えていくしかないように思います。

この全体最適というのは私は全ての原点ではないかと感じています。たとえば、医にしても農にしてもいくら専門家が部分的に何かを解明してもそれは部分最適になります。病気であれば、その病気の炎症を見つけて薬で治しても全体の病気が治ったともいえずそれにその病気の原因が解決したとは限りません。農でもいくら作物だけを見てそれに肥料農薬を加えて対処しても気候や風土をはじめ地球や宇宙からの光や風などのことまでは対応したわけではありません。一つの問題があると感じるときは広い視野と深い智慧と総合的な知識で大きく全体がどうなっているのかを観察する必要があります。

そして私たちには時間軸というものもあります。何年でバランスをとるものなのか、それは50年か、100年か、あるいは1000年か10000年かにもよります。一見それは、短期的に観るとよくないと思われるものでも非常に長い目で見つめるとそれは健康であったといえる問題もあるということでしょう。

人間万事塞翁が馬ということわざもありますが、同様に何が善いかは全体を観てはじめて直観するということでしょう。

現代は、知識偏重型で答えを重視する教育を施された人たちばかりが増えた世の中です。知識を詰め込まれ、その知識によって解決するように信じ込まされてきました。しかし、その知識が結局は専門分野に分類され職業になり、部分最適ばかりをする人たちが増えてそれを評価するシステムが縦横無尽に張り巡らされました。行政も専門家も縦割りの組織の中の正解に束縛され結果全体が悪くなっているものを見せられることばかりです。

本来の原点回帰するというのは、私に言わせると全体最適からやり直すことです。

世界には、人間学を学び教養を持ち徳を積み、あらゆる分野を幅広く深めて根源に達しているような見識を持った人たちがいるものです。いわゆるリーダーであり先達と呼ばれる人たちですがそういう人たちは常に全体最適で自分を律し、他を尊重し、循環を邪魔しないように環境を調えているものです。

先祖のことや子孫のこと、その縦に流れている循環の軸を外さず微細な変化も暮らしの中で調えていきます。色々と知識が増えて科学が進歩することもいいことですが、それは便利になっているという部分最適が増えているだけです。

そろそろ人類は全体最適の真の豊かさを感じなければならないのではないかと私は思います。引き続き、私もその全体最適の一部になれるように暮らしを通して脚下の実践を積み重ねていきたいと思います。

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