徳に報いる、徳を積む

数年ぶりに今市にある報徳二宮神社に参拝しご祈祷を行いました。最初にご祈祷したときは、徳積循環をする経世済民の世の中を甦生すると誓い、それから真摯に取り組んできました。

次第に形になってきたところもありますが、まだまだ課題や困難が降り注ぎます。上下左右に偏っては中庸に引き戻され、それでも信念をもって順応していきますが自然と人間との間で鍛えられることばかりです。

今回、改めて二宮尊徳翁の墓地に立ち水車の教えのことが入ってきました。一円観をはじめ、色々と実践してきましたが何を中心に据えるのかということの示唆を改めていただきました。報徳二宮神社の参道にこのような文章がかかっていました。二宮尊徳翁夜話にあるといいます。

「翁はこう言われた。人道はたとえば水車のようなものである。その形の半分は水流に従い、半分は水流に逆らって輪が廻る。全体が水中に入れば廻らないで流される。また水を離れれば廻るはずがない。

仏教でいう高徳といわれる人のごとくに世を離れ欲を捨てた者は、たとえてみれば水車が水を離れたようなものであり、また凡俗の人たちが教義も聞かず義務も知らず私欲一つに執着するのは、水車全体を水中に沈めたようなもので、いずれも社会の用をしない。

それゆえ人道は中庸を尊ぶのである。水車の中庸は、ほどよく水中に入って、半分は水に従い、半分は水流に 逆らって、運転がとどこおらないことである。

人の道もそのように天理に従って種を蒔き、天理に逆らって草を取り、 欲に従って家業を励み、欲を制して義務を思うべきである。」

何がもっとも徳を循環させるのかということがここからも気づけます。そもそも徳の本体はどこにあるのか、それは一部は目に観えるところ、そして一部は目には観えないところにあるともいえます。

だからこそその両輪がどこに宿り入っているのかを確認するのです。如何にバランスをとるのかというのは、天道と人道を見極めて実践することによります。現実を生きる中で寝言ばかりでも仕方がなく、そして今度は形ばかりにこだわるのも仕方ありません。

中庸や中心でいるというのは、水車のように自然を活かし自分を活かしあらゆる全体のお役に立つということでもあります。

原点に帰り、丹誠を籠めて徳に報い徳を積む実践をしていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です