大業を為した人たちのことを深めていると、生前の姿をはじめ死しても尚、魂は生き続けていることを感じます。先日の報徳二宮神社でも二宮尊徳のお墓のお話で立ったまま埋葬されていることを知りました。それを聴いて凛とする気持ちになりました。
亡くなる瞬間まで農村の復興、人々の心の荒蕪を耕すことに生涯を懸けてこられた一生で今でもその思いはこの世に居続けているともいえます。亡くなる直前の日記には、「予が足を開ケ、予が手を開け、予が書簡を見よ、予が日記を見よ、戦々兢々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と、取り組む姿勢を後世の方々に遺します。
人は、誰か特別な人や神様などにして自分とは違うと思いたがるものです。分別して比較して理解した方が自分も楽だからです。しかし実際には、自分と同じ人でありそれは心掛けや意志や努力の違いがあるだけでもあります。
宝物館に入り、遺された書簡をみると報徳仕法を如何に徹底するかを自分自身の生き方を通して周囲へと徳を感化しておられたことがよくわかります。叱咤激励をしつつ、如何にすれば徳が実現するかを研鑽し研究し実践する一生でした。
人生には引退とか隠居とかリタイアのようなことが言われます。成功して一財を得たら老後は平穏に暮らして一生を終えるというものに憧れます。しかし、そんなものは本当に果たしてあるものだろうかと思うのです。
志を持ち、この世に出てそれを真摯に貫こうとするのなら引退などはありませんし、隠居もリタイアなどもありません。後継者が出たとしても、その後継者を見守り、次の世代のためにできる限りを譲り場をととのえていくのに残りの生涯も費やすだけです。
自分が今の世の中にいる理由、そしていただいたいのちは先人たちの生の結晶です。その恩恵や徳が今も私たちを助けています。だからこそ先人たちと同じように次世代や子孫のために人生を最期の瞬間まで使っていこうとするところに生きる意味があるように私は思います。
お役に立ちたいという願いと祈りは、感謝があってこそのものです。恩返しや恩送りは、生き方ということでしょう。子どもたちや子孫のために、この生に感謝して自分の天命を遣りきっていきたいと思います。