私たちの意識というものはどこに置くかでその言葉や意味も変化します。例えば、鳥の声が分かるというのは、一般的にはわからないと認識しますがこれは鳥の声は鳥の声として人間が定めた意識の中で理解しようとするからです。他にも、石と話すとなると石は言葉を発しないから話せないと思われますが、磨き上げられた石工などは石と対話していくことができるともいいます。
先ほどの鳥に限らず、動物と話ができる人もいるともいいます。さらに言えば、植物と対話ができる人、酒造りや味噌など発酵に関わる人は菌と対話できるともいいます。
これは、その人の意識がどこにあるのかということで変化していることがわかります。赤ちゃんの時などは、特定の意識に定着していませんからあらゆる意識を持っているともいいます。それを両親や周囲の環境によって意識を定着させることによって、人間の社会に適応するために余計な意識をそぎ落とすのです。
これは私たちの耳が、よく聞こえる音を排除していくのと似ています。補聴器などをつけると、あらゆる雑音が聞こえてくるのも同じ原理です。余計なことは聞こえない、観えないようにした方が都合がいいということでしょう。
それだけ五感というものは、環境によって適応するということです。その適応したもので失っても、それが時に必要なものであったりもします。急に人工的な都市ではなく、自然の中で暮らすことになったりするとすぐに五感が必要になることがわかります。
例えば山に入り、時計も携帯もコンビニもお金も電気も水道もガスもなくなれば、意識を変えなければ適応できません。そこでは五感をフル稼働して意識を変えなければなりません。
人は失ってしまっていると思い込んでいるものでも、環境が変われば意識が快復することがあります。感性を研ぎ澄ませていけば、そのうちにその意識に回帰するのです。
これは記憶がまた思い出すように、むかしの感覚が戻ってくるように甦生してきます。しかし、よほどのショック療法でもない限り急に元に戻ることはありません。なので、少しずつ訓練をして意識を調整していく必要があります。
意識は実践や経験、体験により眠りから覚めていくように私は思います。色々とこの時代の変化を遊びながら、あらゆる意識を好奇心で磨いていきたいと思います。