高級感というものがあります。そもそも何をもって高級というのか、その反対が低級といいます。高級は質が高く、低級は粗悪であるといわれます。高級というと、高級車や高級ホテルなどもあります。しかし、高級というものとは別に高額というものがあります。この高額はお金が高いことで、低額は安いことです。これらは、何を基準に高いや低いといっているのか。そこには平均値というか、大体この辺が標準でそれより高ければ高級、低ければ低級となっていることがわかります。
しかしその質の高さというものも、車であれば年代物のクラシックカーなども高級ともいえます。だいぶ古くガタがきていても高級車です。それは希少価値があるからです。では最新の車で安い車が低級車かというとそうではありません。例えば、高級なデザインというものと低級のデザインというものがあります。高級は、高級そうに見えるというものです。色使いや様式などが高級感を出しているという意味でしょう。それに対して低級というと庶民的ということになっていたりもします。
つまりこの高級や低級などというのは、人の価値観でいくらでも変化するものです。宝石ももしも身近な石ころのようにダイヤモンドがその辺に落ちていたら高額でもなく高級でもなくなり通常の石と同じように扱われます。実際にはそんなことはありませんが、それだけ高級かどうかは人間のその時々の判断基準が左右しているということでしょう。
誰かがそれが高級だと言い切っているうちに、それが高級になることもあります。専門家や投資家、あるいは芸術家などもそういうことをしています。紙屑同然だったものが、宝石のように価値が出たりその逆もあります。
人間の価値基準というものほどいい加減なものはありません。例えば伝統在来種の種で絶滅寸前であってもそれが高級になることはなく、人間はあまり関心を持ちません。本来はその種は大変希少で先ほどのダイヤモンドと比べても引けをとらないほどです。しかしその価値がわからなければいつまでも低額で低級ということになります。
伝統文化や知恵などはまさに高級なものであるずですが現代の日本では二束三文の得にもならないように扱われます。私が取り組んでいることは、価値に左右されない普遍的なものを甦生していくことです。
それが本当に必要な価値で計算すると高級になってしまうこともあります。しかしそれは比較対象の中の高級ではなく、実際に時代の価値観のなかで勝手に高級になってしまったということです。
本来は、水などはもっとも高級でしょう。それはお金で買えないほどの価値のあるものです。何でも人類はお金で価値づけをしてきたから本来の価値がわからなくなるという愚をおかすのかもしれません。
子どもたちに本来の普遍的で本物の価値が伝承できるように、私なりの価値軸を世の中に提案していきたいと思います。