以前、後のことを託そうとしていた親友が先に亡くなりました。実際に時間が経って振り返ると託そうとしていたはずが何か別のものを託されたことを感じました。それはどう生きるのか、どう生きてほしいのかというものです。
彼はもう亡くなっていますから現実的には生きていません。なので彼に託すはずだったものも丸ごと呑み込み、さらには彼が願ったことを託された形で今、私が生きているということになります。
この託す託されるというのは、託す側と託された側があるということです。ただ託す側はもうできないから託すのであり、託された側もその人ができなくなったから託されたということになります。この関係は、両方ともできなくなったらそれまでということになります。つまり、できる限りは託されるけれどできないことは託されてもできないということです。
そして託されたものも、同じことを託されたわけではありません。その託されたものをどうするのかは自分で決めることができます。なぜなら、託す側はできないのだから託された側は自分でできることをしていくのです。
同じ託されたものでも、嫌々引き受けるものもあればそれを喜んで引き受けるものもあります。そして願いというか祈りのようなものを引き継ぐものもあれば、負の遺産ともいえる問題そのものの解決を託されることもあります。それは託された人の心次第ですから託した側の責任ではありません。
リレーであれば、バトンを渡すことに似ています。そこまで走ってきてバトンを渡してそこから先はその人が走ります。バトンを返してといっても託したのだからバトンは返せません。バトンを渡した後も、ずっと走ってさらには追い抜いていったりすればバトンを託された人もバカバカしくなってバトンを手放すように思います。
そういう意味で、生死というのは分かりやすい託し方なのかもしれません。いつか、私も私がそうであったようにちょうどいいタイミングで一期一会に託す人が顕れ、その人に託せる日が来たらいいなと感じます。一度きりの道を歩むなかで、たまたま巡り会ったゆきずりの旅路のご縁で出会った善い人に託せることは仕合せなことかもしれません。
善い人というのは、生き方が善い人のことです。
これはきっと、善い生き方をしていた人が引き合うように思います。そういう善い生き方をしてきたからこそ、託す託されるが美しいものになるのでしょう。託された側は、より善いものへと磨き高めていく喜びがあります。
託された以上は、自分の責任で自由に善くしていつの日か託せる人が顕れるその日が来るのを楽しみに味わいたいと思います。
コメント
久しぶりにブログを読ませていただきました。