お米というのは、私たち日本人にはとても尊いものです。お米を食べて今まで生きてきましたが、身体を支えていただいているだけでなく心や精神までも深く結ばれているように思います。
私たちはお米作りをしながら神事を行います。お米作りを単なる食べ物を物として栽培するのではなくまさにお米を私たちのいのちを深く支える尊い存在として共存共栄してきた伴侶のように大切にしてきたように思います。
お米はそれだけ歴史があるように、私たちとの深い関係性があり私たちのいのりに通じているようにも思います。その証拠に、お米の味わいなどに変化が出てくるからです。化学肥料や農薬を使っているお米は、えぐみのようなものが出てきます。特に私は玄米食ですから、お米を丸ごと食べています。すると、そのお米の味や香りがはっきりとわかります。白米にして削れば、おおよそ味は強くでませんが玄米のままだとはっきりと味がわかります。
その時、生産する人たちがお米にどのような心や姿勢で関わったかで味が変わるのです。以前、北海道にある牛がひらく牧場の斎藤牧場さんにお伺いしてはじめて牛乳を飲みましたがその味は忘れられません。牛をどれだけ大切に共存共栄する存在として接してきたかが味に現れていました。他にも鶏の卵なども同様です。愛情や思いやりといった真心や感謝は確実に味に現れます。
その味を活かそうとすれば、その味のままに加工していく必要があります。つまりは生産した人の心のままに料理をするのです。
私が在来種の高菜なども自分で種を蒔き育てお漬物にして加工して料理して提供するのは、その「まごころの味」をお伝えしたいからです。これは日本人の真心のことをいいます。
「日本人の真心を味わう時間」こそ、私は日本人の甦生になると信じています。引き続き、小さな実践ではありますが求めている人には革命的な気づきがあることを信じて丁寧に丹誠を籠めて取り組んでいきたいと思います。