お水に親しむ

水垢離という言葉があります。これはもともと垢離(こり)といって神仏に祈願する時に、冷水を浴びる行為のことをいいます。別の言い方では水行(すいぎょう)とも言います。

具体的には身体に付着した不浄なものを川水に流してしまおうとするものです。垢離の字は、当て字で川降り(かわおり)の音がこりに変化していったともいわれます。垢離の漢字は「無量寿経」が出典とあり、尊者または清僧となるための修行者に課せられた儀礼のことをいうといいます。

また水垢離は修験道的な言い方で、古神道では禊ともいわれます。その起源は記紀神話に、 伊弉諾尊 が濁穢 (けがれ)を除くために禊祓 (みそぎはらい)をしたとある故事からです。

穢れは、気枯れともいい、元氣が失われていることをいいます。水気がなくなって枯れそうな植物が、また水分を吸収して元氣溌剌としている様子に似ています。つまり水垢離も水行も実際には元氣を甦生するために行われてきたものではないかと思います。

私も滝行や水垢離をしますが、この時期は特に清々しく、澄んだ水に触れることで元氣が出てきます。水に親しむというのは、私たちの先祖から今に至るまで何よりも大切にしてきたことです。

私が居る場でも、常に水が生活の中心になります。朝は必ずお祀りしている神様のお水を換えいのります。榊の水も交換します。日々にお水からはじまり、寝る前にもお水で終わります。私たちは火に親しむよりも、多くお水に親しみます。

お水の存在が私たちの生命の根源であるのは、暮らしを通してもすぐに気付きます。どれだけお水を大切にしているかで、その意識でお水との親しみ方も変わります。

尊敬というものは、この親しみや関係性が重要です。寄り添うことや見守ること、信頼することは親しみからです。親しみの中にはお互いへの深い尊重があります。当たり前ではないことをどれだけかたじけないと実感できるか。

そういう意味で、水垢離は私たちにとても大切なことを教えてくださっているように思います。引き続き、遊行を楽しんでいきたいと思います。

 

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