江戸時代における日本最大の私塾に日田の咸宜園があります。これは豊後の三賢人の一人、廣瀬淡窓が開いた私塾です。三賢人は他には、梅園塾の三浦梅園、西崦精舎の帆足万里があります。それぞれ独創的で本質的な教育者で和の系譜を伝承されています。
廣瀬淡窓は、敬天思想の実践者で「万善簿」をつけて善に取り組みました。これは毎日善を積めれば白丸、そうではなければ黒丸、毎月集計して白丸を増やしていき一万の善を積むというものです。この善は、別の言葉では徳ともいいます。毎日徳を積んで、一万回ということでしょう。日々の暮らしを善や徳を意識して実践するというところに、この咸宜園の理念を感じます。
咸宜園の「咸宜(かんぎ)」は中国の詩集「詩経」の言葉fr「ことごとくよろし」という意味になります。これは徳を活かすという意味とも言えます。また実際には身分、学歴、性別を問わず誰でもどんな人でも入塾ができるという三奪法(さんだつほう)」というものを定めます。年齢や地位や職業など問わないで人間本来の學問を一緒に取り組むということでしょう。
むかしの私塾の創設者や學問を立てた人たちは、その人格のすごさや内容の素晴らしさにいつも感銘を受けます。これは伝統技術や伝統工芸でもむかしの人たちのつくり上げたものに現代の人たちが叶わないのと同じです。それだけ人格が磨きあげられ、暮らしが丁寧であったことが想像できます。
廣瀬淡窓は、學問への姿勢として「淡窓詩話」の中でこういうこともいいます。
「天下ニ廣ク流行スル説ハ。其説必ス浅近(せんきん)ニシテ一偏(いっぺん)ナリ。如此(かくのごとく)ナラザレバ。中下等(ちゅうかとう)ノ人ヲ引キ入ルゝコト能(あた)ハズ。予ガ如キ漠然タル説ハ。迚(とて)モ人ノ耳ニ入ラズ。是亦子莫カ中ヲ執リテ權ナキノ類ナルベシト。自ラ一笑シテ止ミヌ。」
意訳ですが、「天下に流行している学問の極端な説は、浅はかで偏っているから人気があってすぐにうける。しかしそういう俗うけするものはそういう浅はかな人たちがばかりが集まってくるものだ。自分のいうような当たり前の説は、ほとんど広がらないし俗うけしないし目立つこともない。これは中庸であるからで、極端ではないからであると。いつも笑って受け流している」と。
これは現代の珍しい著書やニュースや偉い人たちが極端なことをいってテレビなどで注目されて人気が出ているのを見てもよくわかります。みんな新しい説や極端な説ばかりを探して、メディアはそれを取り上げては情報ビジネスで儲けています。しかし、本来の中庸とは「あたりまえ」のものです。それは空気や水や光などの自然の道、あるいは暮らしという生活と意識であったりもします。
私も日頃から話していて世間からみるとそんなの知っているということを何度も地味に伝えています。しかし知っているだけで実際にやっていないのならそれは知っているとは言わないものです。知りたがりが増え、知ることが目的になってしまえば、あたりまえの本質的な意識を改革するような暮らしは遠ざかる一方です。一人の暮らしが変われば世界が変わるといっても、今は10億人が変わることの方が変わったという時代です。
本当のことを學ぶは、人の教育の理由と本質であり、人格を磨くことにおいてはまず「あたりまえ」から共に學び直しはじめましょうということかもしれません。それは古今問わず誰にでもある普遍的な「暮らし(生活)」からということでしょう。むかしの私塾が全寮制であったり、共に師弟で薫風するのを見つめているとその本質を感じます。
私もこの場で暮らしフルネスを実践していますが、引き続きあたりまえのことを丁寧に取り組み徳を積んでいきたいと思います。