独創の生き方

三浦梅園先生の影響を大きく受けた人物に1949年に日本で初めてノーベル賞を受賞した物理学者で中間子理論を生み出した湯川秀樹先生がいます。その湯川先生は「もし梅園に出会わなかったら、私はノーベル賞をもらえなかっただろう」とも話をしています。

では出会って何に気づいたのかということになります。それは一つは、常識という枠外にあるもの、もっといえは刷り込みのまったくないそのものから学んで気づいたという學問への在り方やそのうえで本当のことを恐れずに追及していくことではないかと私は思います。

その湯川先生はこうもいいます。

「独創的なものははじめは少数派。多数というものは独創ではない」とも。

現代の世の中では多数派が力を持ちます。多数派は、人気がありお金も仕事もたくさん得られます。そして周囲からも評判を得られます。独創の対義語は模倣ともいいます。誰かの知識で理解するということでしょう。自分が自ら悟って得た知識ではなく、誰かの知識を模倣して標準化した人が現代ではオリジナルとも言われたりします。

そもそも独創的な人は周囲から理解できません。周囲できないから独創的ともいわれます。何を言っているのかわからないともいえます。それが多数派になったときはもはや独創ではないということです。

それだけ自分で學問を探求する人は、周囲には理解されません。しかし今の勉強ではそんな独創的なもの、言い換えれば独りよがりのものは予算もつきませんし、世間の評価というものもありません。そんなことをさせてもらえる環境はないとも言えます。

なのでいつの時代も独創的な人は、自力で執念深く自らの力を頼りに探求していきます。それがある時、世間に知られてしまえばそこからは膨大な予算や評価もつくのでしょう。

しかし最初は一人からはじまります。そういうものが発明であり、そういうものが変革ということになります。つまり世の中を変えてしまう独創性は、そのはじめの独創的な人からはじまるということです。

これをニーチェはこうもいいます。

「何か新しいものを初めて観察することではなく、古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを、新しいもののように観察することが、真に独創的な頭脳の証拠である」

いわゆる先入観もなく、自学自悟するということです。自分で悟るために自分で学ぶというようにすでに学び方が世間一般と逆転しているのです。もっと具体的に言えば、先に答えを生きているのです。これは自然観であり、宇宙観であり、発明する人たちほど持っている素養です。

そしてこうもいいます。

「世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。」

また「たくさんのことを生半可に知っているよりは、何も知らないほうがよい。」とも。

そして「孤独な者よ、君は創造者の道を往く」と。

独創という生き方こそ、本来の創造であるということでしょう。独創というのは、その言葉の通り独りで創りあげるということです。

私も色々なことに挑戦していますが引き続き、独創の生き方を貫いていきたいと思います。

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