情報やITなどをやっていると不確定な出来事やモノゴトをその都度正しく判断していくために様々なことを深く見極める力が求められる。
特に無造作に色々な定義や解釈が溜まって来るとさも分かったような気になるものだし、専門家が知識や弁舌で語ればそれが本当かどうかなどすぐには見分けはつかない。
世の中のほとんどの人が、深い哲学や信条から自分の力で透徹して考え抜くことをせず安直に「出来そうな人」や「決め付けている人」の思想や想念に引きづられて刷り込みの世界にもっていかれているような気がする。特にテレビ信仰や肩書き信仰は根強く、見た目の華やかさ煌びやかさに疑うことも忘れてしまい何かのミスやその人の性根が垣間見えると一気に捲し立ててその立場から引き摺り下ろすといった具合だろうか。
まずは自分がその人のやっていることを同じようにやってみて、その上で判断すればいいのにそれもしない。適当な「分かった気」になって解釈しさもその人の事を知り尽くしたように言動を放っている。
白か黒かを決めたいという理由で、グレーであるという可能性を否定してしまうのも人間の弱さというか未熟さゆえになのだろうなと私は思う。
しかしよく考えてみると、やはり人にモノゴトを伝えるというのは何よりも「至誠」によりはじめてできるものなのだろう。
その一部を切り取って認めさせたり、その一部だけで信じさせようとしたってそんな一時的な操作主義に見えるマネージメントには他人はきっと敏感に察知するものだ。
子どもの時に、そのように他人を恣意的に動かしたいという欲に対して誰かにうまく丸め込もうとされる人間関係の機微にはみんなそれぞれに危機管理能力を磨いてきたものだ。集団をどのように操るとか、集団をどうやって納得させようなどの大人の安易なやらせ方やクラスの決めた人の上手なまとめ方など過去の軍事的な手法によってやられ、やらされてきた場合が多いと思えるからだ。
もう今の若い人たちは「それ」にも嫌気がさしているのだ。
相当な過疎地で田舎で校長が信念の人であれば可能かもしれないが校風も自由で、何でも自由活発にできるほど日本の教育界は柵がないわけではないと思える。やっぱり、戦後の偏向思考というか日本独特のやり方に従わないといけない力が無意識に働くのだろう。
話を戻すと、そういう風に人は見抜くのだからどんなに偉そうなことやちょっと物知りなだけでは子ども達の長い将来を見通した遠大な理念で人を納得させることはなかなかできないのだ。今の世の中は、まず人が情報そのものをとかく納得しなければ権力や威光だけではついてこない。そしてそこに邪な操作主義があれば必ず人はその矛盾に気づく。だからこそ根気強く粘り強く繰り返し理念に沿って言い続ける実践し続けることが大事な時代なのだ。
論語にある。
【言忠信・行篤敬】(げんちゅうしん・ぎょうとくけい)
言忠信、行い篤敬ならば、蛮狛の国といえども行われん。
まずは、至誠に基づき自らが実践実行と誠意を持って物事に当たること。そしてその実践実行に於いて周囲を感化していくこと。それを行えばどんなに不貞不義の偽りの蛮狛の人々であろうとも最期にはそれを治めることができるというものだ。
私達は、企業であるが教育界に根ざした一本の木であるのだと思う。
まずは、鳥獣、虫魚のようなものではなく人として何よりも脚下の実践を持って草花に学び自然の理を持って世の中の真実に向き合っていきたい。
不器用と世の中に定義されようが、逆行していると言われようがそんなものは関係ない。常にモノゴトの判断は至誠に於いて置かれている環境をすべてを受け容れてビジネスという私の使命と責任を照らし、不動の軸を醸成するための糧にする。
だからこそカグヤは「言忠信・行篤敬」を持って、自らの実践に至誠を貫いていきたい。
それこそが、子ども達の良い土壌を培っていくことを信じ、それこそが次の種を繋ぐ推譲に繋がることを信じて。このブログの初心に改めて感謝。すべては脚下の実践のみをこのブログで求め続けることを誓う。
コメント
問題意識を持ち続け常に考え続ける事と、それに対して実践して行く事がイコールでなければ自分の中での答えというか本質的な部分は見えてこないというのは、やはり自分の実践からも感じます。自分自身の安易な判断で自分が苦しむ事はある意味で問題はないのかもしれませんがやはり共生して人は生きるということを考えると、その安易さで周りを犠牲にしてしまう事が特に今の時代では多くあるのだという事をしっかりと考えなければと思います。特に研修などでは自分の言動が周りに与える影響は多大なものであると思います。その為も日々考え日々行なうという事を大事にしたいと思います。
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論語に「君子は諸を己に求む。小人は諸を人に求む」ともあります様に、自分が不安
であったりすると相手に求めて、相手を御することに捉われてしまう様なことがあり
、本当は変えるべきは自分の中にあり、考え方、行動に現れなければならないという
ことを考えさせられます。
子どもが主体的になることが保障された世の中を創るのであれば、まずは自らが以て
主体的になることが必要であると思い、一つひとつ自らが行ったことが子どものため
になると思い、一日、何が出来ただろうかと振り返り、確かめて歩みたいと思います。
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「分かった気」になって解釈しさもその人の事を知り尽くしたように言動を放っている。
という文章が、自分に矢印を向けた時に、何もやらずに、頭の中で判断してしまうところがあるので、まずは実際に経験してから判断をすることが大事だと感じました。
自らが実践を行い至誠を持って仕事をしないといけないと思うが、至誠というものを深く理解していないので、今後深く理解できるように何のために仕事をしているのかを仕事だけでなく、私生活の中でも考えていきたいと思います。
自分がなぜカグヤにきた理由を忘れずに、自分のためにではなく、日々子どものために実践をしていきたいと思います。