私たち人間というのは、そのものの姿によって好悪の感情を抱くものです。毛虫の時は毛嫌いし、蝶になれば美しいと愛でようとする。その本体はどれも同じであっても、それを別物として認識しては好き嫌いを分けています。他にもイノシシなども売り坊の時は可愛いとなり、大人になったら気味悪いとなります。人間でも生きているときは美しいと思っても死んだら幽霊だと怖がります。
そんな当たり前のことをと思うかもしれませんが、これは本当に当たり前なことなのかということです。この世の中のあらゆるものは変化を已みません。その変化していく姿に私たちは思い込みで好悪感情を持ち評価しているものです。
先ほどの毛虫であれば、その毛虫が将来大変貴重で美しい蝶になると言われたら毛虫への感情も変わりその毛虫が好きになったりするものです。その逆に、醜い毒蛾になるといわれたらすぐに捨てるか遠ざけるでしょう。人によってはそれぞれに選り好みもありますからそれが好きな人もいるかもしれません。
何を言っているかというと、それは全てその人の偏見で観て感情も執着をもっているということです。
それが分かってくると、この好悪感情は一瞬にして変わってしまうものであることがわかります。例えば、銀杏の実が臭いと毛嫌いしていたものが一度炭火で焼いて食べて美味しいことが分かった瞬間から喜んで実を集めだすようになります。しかもそれまでの環境が反転して、臭いすらいい臭いに感じ、愛しく実が落ちるのを眺めるほどです。
結局何が言いたいかというと、好きか嫌いかというその人の偏見によってそれは裁かれますがそのものの価値はその人の好悪感情とは関係がないということです。
そうやって偏見を持たずに自然を見つめ直すとき、すべての自然にはそれぞれに尊い価値があり、お役目があり、徳があることに気づきます。小さな石ころであっても、鬱蒼と生えている蔓であっても、それぞれの本質がありいのちがあります。それをそのままに観えることができてはじめて人は、あるがままの味わいを感じることができるように思います。
そしてこの好悪感情というものがどれだけ現実に影響を与えているかを知ります。事実を歪め、本質を澱ませ、根源を忘れさせます。
好悪感情があることで、様々な感情の経験を体験でき私たちは臨場感をもってこの人生を謳歌していけることも確かです。しかし同時に、自然そのものの素晴らしさや不完全であることの美しさなども実感することでいのちが一体になって共生する豊かさを感じられ仕合せになることも確かです。
人間に眼が二つあるように、心の眼と情の眼をバランスよく重ねてそのどれもを丸ごと愛せるようになれたらいいなと思います。人間らしく自分らしくというのは、生きるうえで大切な羅針盤なのかもしれません。
引き続き、観るを省みて眼のバランスを調えていきたいと思います。