昨日は見事な十五夜の美しいお月さまを拝見でき、仲間たちと徳積堂で徳積と暮らしフルネスの実践をするなかで心身がとても元氣になっています。今ではお月見の方が非日常になっていますが、本来はこのお月見こそ私たちの当たり前の日常の暮らしの中心に据えられていました。
いつからか私たちはかつての当たり前が、当たり前ではない非現実のものになっています。私は、かつての当たり前を忘れないように色々と現代の特定の環境に刷り込まれないようにと日々の暮らしを調えていますが、よく周囲の環境に染まっている人たちからは尖がっている人といわれたりします。別に尖がろうとしてやっていないのに尖がっているというのは、それだけ今は当たり前のことが当たり前ではなく見えるということです。他にもこだわりが強すぎると驚かれたりします。これは別にむかしの当たり前を自然にやっていたら周りからそう見えるだけということです。極端だと、縄文人を目にすれば現代人からは異常に見えたということでしょう。しかし別に縄文人の恰好をしてなく、物事の自然が分かる人なら違和感はそんなにないはずです。
そもそも何が自然で何が不自然かがわかるというのは、どの時代を生きることにおいてもとても大切な見識です。どの時代も今の時代が当たり前になっていることは、むかしから見るととても滑稽で異常に見えるからです。
例えば、保存食が添加物たっぷりの調理になっていることやサプリや薬ばかり飲んで身近な薬草など除草剤で枯らしていること。他には、お金を大量に使って心の満足を得ようとしていたり、季節の循環をまったく無視するような生活をすることで経済を動かすこと、水道やガスや石油などエネルギーの無駄遣いなど驚くほどに当たり前が変わっています。
どちらにしても不自然な生活を続けていたら、いつか必ず限界がきて崩壊します。それでも当たり前の環境がすぐに変わるわけではありませんから赤信号をみんなで渡れば怖くないと誰もが先延ばしをしてツケを子孫に残しています。
本来は、気づいたらすぐに自然に回帰できるように色々と改善をして子孫へのツケを今の世代で解消しようとするのですがそんなことをしていたら尖がっているやこだわりが強いといわれ変わり者として裁かれる始末です。実際にはそうではない人もいますが、世の中の大多数、特に既得権益を持っている人たちほどかつての当たり前は異常になっていた方が都合がいいのかもしれません。
昨夜、お月見をしていたら数千年、数万年前のことに思いを馳せました。その頃の人たちは何を感じていたのか、どれくらい澄み切った感性で物事を観ていたのか。日本刀の古刀に現代刀が叶わないように、その魂の純度は研ぎ澄まされた人たちの暮らしはどうなっていたのか。
私の関心はそこにあります。
先人たちはみんなで自然に対して謙虚に、正直に生きてきたからそれを暮らしに昇華させみんなで実践を怠らず子孫へ徳を積み続けてきました。先人たちが磨いてきた美しい暮らしは、子孫たちへそのまま譲り渡していけば私たちはツケを解消していけ同時に徳も譲っていけます。一人一人はたとえ小さくて弱い実践かもしれませんが、暮らしは誰にでも今からでもすぐに改善することができます。
お月さまが私たちを澄んだ光で見守ってくださっているうちに、私たちも懐かしくて美しい生き方に当たり前を学び直していきたいと思います。