暢気に道を歩む

諸説ありという言葉があります。これはその一つを論じるのに色々な説があることをいいます。というかこの世には、後から続く者たちがそれぞれに説を語りますから諸説があります。すでに私が起業した会社でも、名前の由来とか起源とか、どのような経緯で今の事業を興したかも社員に聴くとそれぞれに諸説があります。それは一緒に取り組んでいた社員がそれぞれの視点や観点で語るとそこに諸説が誕生するからです。

他にも、以前ある人の遺言で生前よく話していた言葉を石盤に刻みましたがそれも周囲の人たちの間では諸説があって全く纏まりませんでした。結局は、英文にしてなんとなく響きや名前を文章に入れて刻んだことがあります。このように諸説というのは、周囲の人たちがそれぞれに語るからそうなります。

そう考えてみると、宗教などはその最たるもので仏陀が語ったことを周囲の弟子たちをはじめ後人たちがそれぞれに解釈して自分の方が間違いないと語りますから諸説は誕生し続けていきます。そしてその諸説が、派閥になり宗派になって今に至ります。

よく経典を観察してみると、似たようなことばかりを書いていますしそれがまた小さな違いがさも大きなもののように記されていたりします。他には茶道などの作法も派閥によって異なります。最初にはじめた本人はまさかそんなに分派して自分のやり方が諸説誕生するなど考えてなかったかもしれません。しかし実際には、そうやって分派し、よくないことに何百年もかけてどちらが正しいかといがみ合ったりしているのが人間です。

修験道というものも、本来は派閥ではなかったものが江戸時代以降に幕府の管理下に置かれるようになり派閥に属する必要が出てきて今でもその派閥で存在しています。しかしそもそもこの修験道は、一宗一法に執せずという教えもあったりして神仏混淆、もっと言えば何でもありの考え方ではじまったものです。今では袈裟を着てそれっぽくなれば、立派な宗教の人になります。しかし実際のはじまりは、縄文人のような姿で純粋な信仰心からはじまったのではないかと私は直感します。

お山や海、そして河川や岩など、自然物が如何に私たちに恩恵を授けてくださっているか。自然そのものを尊敬し崇拝するのです。自然に諸説はありません。諸説は人間がつくりあげるものです。

私は諸説にあまり興味がなく、始まりや原点などに興味があります。

引き続き、自然体でお山に学び、お山の暮らしから和合を楽しみ暢気に信仰を甦生させていきたいと思います。

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