比べない

幸福度というものは、他者との比較で実感するものです。自分がどれくらい幸福かというものも、他者を知らず自分だけでいるならばそれが幸か不幸かわからないものです。生まれながらの場所で、最初から具わった状態で自分がそこでどのように感じるかはその感じ方次第です。ある人は、大変凍てつくような厳しい土地であったり、またある人は砂漠の焼けるような暑さの中であってもその場所に適応してその場所で幸福を味わうものです。

しかし、ここに経済的な文明人が入ってきて豪勢な家や車、便利な家電家具、またあらゆる世界の美味しいものを自由に食べて煌びやかで楽しそうな生活を見せられると、若い人や子どもは好奇心から体験したいと思うこともあるのでしょう。そうやっていつも情報をテレビなどでとって、その煌びやかな富に満ちた生活を憧れるような広告やモデルやドラマなどを見せられていたら自分の今の境遇と比べてしまうものです。

北朝鮮なども、私たちには非常に貧しくて悲惨な独裁国家というイメージを持たされていますがもしも他の国のことをその国民が知らなければ本人たちはそれを不幸とは思いません。韓国ドラマを観たりすると死刑になると若者たちが犠牲になっていましたが、それはその生活を観てしまうと自国があまりにも惨めになり政府への反発が出たりするからというものでしょう。

そう考えてみると、人は他者と比べないことがもっとも幸福の近道であることがわかります。自分には今の場所、今の環境で十分と足るを知る暮らしができているのならどんなに外的環境が変化しても幸福度は変わらないということになります。

むしろ必要以上にたくさん持てば持つほどに、幸福度は下がってくるともいいます。余計なものが増えていけばいくほど、足りていたはずが足りないことに転換されていきます。

想像すると、むかしの縄文人たちはその日暮らしです。しかし一年間、どこになんの食べ物があり、何を食べると生きていけるかは知っています。服装も簡素なものですが、縄文土器をはじめ装飾品などをつくり楽しむ時間がたくさんありました。食料は少なくても、食料を加工していく時間もまた楽しい時間だったのかもしれません。

今では便利な機械で合理化されて、手作業でやろうとする人などほとんどいません。それだけ効率化され便利な世の中は、忙しいのです。みんなで忙しくしては、他者を羨ましがるような生活を胃しています。

結局は、人は比べることで自分を見失うことが幸不幸の問題なのかもしれません。与えられた天命を知り、自分を盡していくことが幸福の傍にいることです。子どもたちのためにも、シンプルで丁寧な生き方を磨いていきたいと思います。

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