日本語というものをはじめすべての言葉には、その意味の中に時代の価値観を織り込んでいるものです。時代が変われば同じ言葉でも意味がまったく異なります。つまりそれは人間がその道具をどのように使うかで意味が変わるからです。
例えば、自然という言葉でも今の人がいう都会や人工的なものがあることが前提で語っていますが、数千年以上前の生活をしていた人たちが使うかつての自然とは意味が違います。特に近代に入り、言葉は軽くなり様々な言葉を一部の人たちによって操作捏造され定義を変えられてきました。今ではメディアが一斉に言葉を簡単に情報によって変えてしまいます。価値観も認識の変容も言葉から行われます。
そして無意識に知らず知らずに教え込まれ使っているうちに、私たちは本来のその言葉の意味や語源などを立ち止まり深く考えることがなくなりました。まさにこれを言葉を通した意識の洗脳と呼ぶ人もいるかもしれません。私たち生き物は最初からあった環境に刷り込まれますから、言葉も当然、その意味で使っている周囲の大人たちが3人以上で教え込めばもはや誤認しているかも気づかなくなるものです。
私は元々どうだったかを知りたがるオタクですから、言葉はよく調べます。実際に語源やルーツはどうだったのか、どのような変遷で今の言葉になっているのか、そして世の中ではどのように使われているのか、あるいはその使われ方から誰がそれをそうさせているのかなどを研究します。これは元々を知りたい欲求から来ているので、何かの勢力や洗脳することにまったく反対は興味はないのですが知れば知るほど非道なことが行われていることを感じます。
経済という言葉などはその最たるものです。そして経済成長などという言葉もだいぶおかしなことになっています。何を経済と定義するかでその意味が変わります。現在の経済はお金のことをいいます。そして経済成長となると、お金がどれだけ増えたかということです。つまり経済=お金ということです。
そうなってくると、経済がつく熟語はすべてお金の熟語ということになります。しかし実際の経済という言葉は、経世済民という語源があり、西洋のeconomyも家を運営する仕組みという語源です。お金のことなどは一切述べているものはありません。
つまり本来の経済とは、全体最適でありすべてのいのちの幸福を実現する言葉であり、単なるお金を増やすことだけを語るものではないということです。
経済界となると、お金界ということになります。確かに、経済界の集まりに出るとお金の話ばかりです。本来は、徳の循環を話をしあうのが本当の経済界だと私は思いますがそういう人があまり出てきません。お金をどう稼ぐのか、お金のことばかりでほとんどの時間を費やします。それで経済活動というのです。
経済活動とは、本来は徳が循環する活動だと私は思います。これはすべてのいのちが輝くような活動であり、全ての徳を活かすような活動です。先人たちは、縄文時代よりももっとずっと前からお金が発明されるよりも先に経済活動をしてきました。それは暮らしを洞察し研究してみるとよくわかります。
私が伝承している暮らしの中は、そのほとんどがかつての懐かしい経済活動です。お金はそんなに多くはありませんが、ちゃんと徳が循環するように流れています。まるで英彦山の宿坊の傍にあるせせらぎが流れ続けるように、私の経済活動もそれを参考にしながら続けています。
このせせらぎのような経済活動も私は立派な経済活動だと自画自賛しています。いつかはこれが大河になり海に辿り着く理想を志して取り組んでいくだけのことです。
耳にする言葉、話し合う言葉、そして使う言葉に気を付けながら本当の意味に回帰させることも自立の大切な要素です。子どもたちや子孫のためにも丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。