昨日は、ある木像の開眼供養に同席するご縁がありました。元々、仏陀は偶像崇拝をしていなかったといいますが最初の木像は仏陀を思慕した弟子によるものがはじまりともいいます。今では世界各地、また日本全土で仏像があります。これは仏師という職人もたくさん誕生し、古い樹木には精霊や命が宿ると信じられてきましたからそれをお守りにするという風習も増えていったこともあるのでしょう。日本では、どちらかというと勾玉や鏡のように自分をうつすものを美しく清浄な魂の依り代のひとつ、それを「御守り」として像を大切にしていくということが多いようにも思います。
もともと仏というものの定義は「目覚めた者」で、「真理 に目覚めた者」「悟りを開いた者」ともいいます。また同時に、人はみんな元来仏であると言葉もあります。何かどこかの神格化された神様ではなく、自分の中に仏がありそれが目覚めれば仏そのものになっていくということでしょう。
これは赤ちゃんが産まれてすぐに神様のような姿で誕生するように、人は最初は初心な姿ですがそれが世の中の環境や育ち方によって変化して自分の本文や徳を刷り込みによって忘れてしまうのでしょう。そうならないように、いつも仏をお守りにしていこうとするのは自然に発生する人間の心の一つであろうと思います。
また開眼というのは、5つの眼が開くことをいうといいます。その5つは肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼です。簡単に言えば、肉眼はそのまま肉体を通してみる目のこと。天眼とは、心の眼を開くこと。そして慧眼は、本質や未来を見通す眼。法眼は、正しいことを観る眼。そして仏眼はあらゆるものをありのままに観える眼ということになります。
そもそもこの世を観るのに、ありのままに観るというのはとても難しいことです。そこには偏見をはじめ、常識、欲望、余計な知識などによって複雑に混乱しています。シンプルに物事が観えるというのは、真実が観えるということです。
眼を開くというのは、悟りそのものでありこれを仏の姿としてそう観えるようにありたいと願う中に仏像のもっている本来の徳を感じます。
私もいつか一切の淀みなく、清らかにあるがままに物事が観えるような自分になりたいと思います。このご縁に由って直観した智慧を学び直していきたいと思います。