米百俵からの学び

佐久間象山の門下で二虎と呼ばれた人物に吉田松陰(寅次郎)と小林虎三郎がいます。どちらも志と教育を実践することにおいて魂を磨き上げた人物です。吉田松陰はよくこのブログでも書いていますが、小林虎次郎においてはほとんど書いたことがありません。少し深めてみようと思います。

もともとこの小林虎次郎という人物が世の中で有名になったのは山本有三の戯曲、「米百俵」です。この戯曲は、小林虎三郎に関する現地の聞き込みなどの詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめ1943年に新潮社から出版されて人気を呼んだものです。

具体的には、戊辰戦争の敗戦によって城下町は焼け野原になり、さらにはそれまでの石高が従来の三分の一になり武士たちをはじめ長岡の人々が食べるものもないほど困窮しました。その時、支藩の三根山藩がその惨状をみて米百俵をお見舞いとして贈ってくれました。藩士たちは大変喜び久しぶりに御飯が食べられると喜んでいたら、それをその当時の大参事(家老)の小林虎三郎が学校を建立すべきとして藩士と共に学校を建立した話です。

これは以前、私がオランダに訪問したときライデン大学の創立の時に同じ話を聴きました。これも80年も続いたオランダ独立戦争ではじめて民衆の力で独立を果たしたとき、その報酬として民衆に何が必要かと問うと最初に学校が必要だといってできたそうです。それがこのオランダ、ライデンの誇りとして今でも立派な人や優秀な人たちがオランダから排出され続けています。

長岡も同様に、なぜ敗戦したのかと反省するとき「人物」によると定め、立派な人を育てる学問が必要で、それを果たすためには学校がいるという判断をしたとあります。もともと歴史を深めると、長岡藩は最初から戦おうとしていたわけではなく中立でむしろ戦わないようにと働きかけていました。しかし、明治維新で江戸に無血開城が決まり血気盛んな薩長土肥やその背後の勢力が義を無視して攻め込んだようにも思います。色々と幕府との関係においての復讐もあったのかもしれません。

どちらにしても時代の先をよく見据えて、何がもっとも根底から藩を立て直すことができるかを考え抜いたとき学校を創るという判断になったように思います。明日食べる御飯もない飢餓のなかで、遠く先を見据えて行動できるというのはまさに武士道の鑑のような実践で感銘を受けます。今の時代も、目先のことばかりで自分たちのことばかりで長い目で遠い先を見据えたことが蔑ろになっています。

徳というものも本来は、長期的に実践するものでありそれを徳目とも呼びます。如何に経世済民をするか、如何に徳を循環させるかは遠い未来のためにと取り組むしかありません。

先ほどの米百俵の戯曲にはこうあります。

「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。」「この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。」

また戯曲の中では子どもたちのために何ができるのかをよく考えてほしいと、また常在戦場という藩の理念に対してどうあるべきかを考えてほしいと藩士に訴えます。この常在戦場とは、常に戦場の心で生きよという生き方のことです。戦場でお腹が空いたからと取り乱すのか、常に自らを律していのちを懸けよということでしょう。長岡藩士たちは理念を実践し、長岡を敗戦から救うだけでなく負けておらぬと真摯に立ち上がって復興をし続けたように思います。敗戦からの復興は希望であり、未来であり、そしてここから学ぶことで甦るのだという覚悟を感じます。

そして国漢学校という名で創立されその初代校長に小林虎三郎が就任します。その最初の挨拶と講義は大学にある「修身治国平天下」の話だったそうです。そしてそこから近代日本を創る見事な人たちがたくさん創出されました。

どの場所にも歴史があり人があります。

私たちの中に連綿と流れている徳の川を辿り、子孫たちへとその徳を伝承することが真の歴史を紡ぐことです。伝承者として、先人の生き方から常に学び直していきたいと思います。

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