発明のこと

私たちはあらゆる便利な発明によって文明を開化させていきました。最初に数字や文字を発明してからまた戦争を繰り返す中で武器を増やしていきました。人類の発展というのは、地球の循環とは別のところで発生していきます。この発明という技術によって発生した新たな技術がそれまでの人類の方向性をまるで変えてしまうということがあるように思います。

例えば、世界には小さな少数民族をはじめ今でも布切れ一枚で森の中で生活しているような部族がたくさんあります。それぞれに小さな国を実現し、その国にはその国の常識があります。

今ではお金があるというのは当たり前のことですが、その場所ではお金もない場所もあります。お金がない国があるということです。そういうところはどのようにして国を運営しているのか。ほとんどがみんなで分け合い、助け合い大きな家族として見守りながら暮らします。これはよく観ると、動植物や昆虫なども同じような暮らしです。

文明をもったという人類だけがお金を持ち、文字も数字も技術も持つ。その道具を用いてさらに宇宙開発に進出していくというのが現代の様相です。今では、遺伝子を操作しあらゆる人体の状態を管理し、人工知能によって人間の頭脳の一部を完全にアウトソージングできるようにしていきます。未来には、映画や漫画であるような技術が発明されさらに文明が発展するということを目指していきます。

しかし、その文明を発展させるために資源を使い続けます。結局はこの数百年、産業革命以降の人類の様相を観察すると資源を搾取するための技術ばかりを追い求めてきました。世界中から資源を探してはそれを搾取する、そうして富を独占する。そのための技術革新ともいっても過言ではありません。本来、石油一つであってもこのままでは枯渇し、地球の大気を著しく汚すとわかっていても利権があるためにその欲望に支配された技術革新のみが技術の発展となっていきます。ややもすると、技術者はマッドサイエンティストのように悪に手を染めて悪の手先のように人類が貧しくなるお手伝いをすることにもなります。良心的な技術者であれば、発明をやめてしまい農家になって静かにその時代をやり過ごす人もたくさんいたのではないかと思います。

これはいい発明、これはよくない発明というのを人類が決めるのだから人類自体が人格が磨かれ徳がなければ真にいい発明は訪れないということでしょう。そもそもいい発明とは、自然界がすでにほぼすべて発明しきっています。自然のやっていることをなぞることができても、自然が発明したようには私たちにはできません。

この身体が見事に調和循環して生命を維持するようになど、人類の科学ではまだできません。つまり人類は、余計なことをしているうちに自然から離れては自然の偉大さを知るということを繰り返しているだけともいえます。

話を戻せば、文明がこの先も発展していくとしたら人々が真の豊かさとは何かに気づき、欲望の果てにあるものを諦めて手放し、心身ともに徳に目覚めて成熟していくことではないかと私は思います。そしてこれは時代からの要請が必要になるものです。時代が先に気づき、時代がそういう流れを人類に創るということです。そのためにも、小さなところから真にいい発明に目覚め、それを具現化する小さな自律分散で互譲互助のような講、あるいは徳を循環させていくようなコミュニティが増えていくことだと私は感じます。

時代の先をいくというのは、太古から普遍的な道を今も実践するということです。子どもたちや子孫のために真の豊かさを、人の生きる道を紡いでいきたいと思います。

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