スリランカでは巨石の磐座で暮らしている僧侶にお会いしたり、庶民的な家を見学したり会食をしたりとこちらの文化に馴染む一日になりました。ただ、日本との気温差で汗が滝のように流れ、また辛い食べ物も相まってなかなか体がついてきません。日差しが強く、湿気も強く南国のような気配です。島は自然が多く、鳥たちをはじめ動物たちや虫たちの楽園です。
人間の気質も島国特有の楽観的でゆったりとし、穏やかで親しみやすくみんな笑顔が多くて気さくです。写真撮影が大好きなようで、とにかく一緒に写真を撮ってきます。ほとんどの人たちが携帯を持っていてそれを使いこなしています。
一昔前といっても、携帯が普及するこの20年弱である意味世界は一変しました。世界中のあらゆる情報を取得でき、それがそれぞれの場所で影響を与えました。似たようなお店や商品、娯楽施設などもあっという間に世界に広がり、食品を含め仕事も変わっていきました。
今回のスリランカでも、当然パソコンも携帯もあらゆる場所で電波が調っていて入ります。むしろ日本の方が伝播のないところがまだたくさんあるくらいです。翻訳も便利なアプリがあり、何かあればそれで伝えます。とにかく、便利さというものが世界を変えてきたということでしょう。
人間の特徴として、便利なものは大好きで新しいものという認識があります。便利なものを手にすると、人はそれを手放せません。これはパソコンだけでなく車などの移動手段、また買い物や宅配など、どんどん便利さは新しさと共に発展していきます。
しかし便利さは完全無敵ですべてを賄えることはできません。その便利さが苦手なものとして伝統的な暮らしというものがあります。これは、自己修養であったり、自分の身体感覚を磨いて心を調たりすることもですが代替えすることはできません。便利な道具が増えても、それで悟ことはできないのです。AIが悟ってもそれは自分の悟りではないことはすぐにわかるでしょう。
日本の曹洞宗の開祖、道元禅師が宋で出会った老典座との会話の中で発見した真理に「偏界曾て蔵さず」(へんかいかつてかくさず)があります。これは私の意訳ですがこの世はかくすことなく全てそものが現れている、暮らしそのすべて一切が丸ごとの修行であると。
これは私の暮らしフルネスの実践の中心にあるものと同じです。
スリランカでも、私が感じるのはこの便利さということと知識や何か特別な修行をすることがいいことのように広がっている教えというものの矛盾です。真の教えとは、そんなに特別なものではなく伝統的な暮らしを観たらその中で全て含まれていることを感じます。
修行そのものが目的になってしまったり、悟ることそのものを目標にすると本末転倒するというのはどの時代も同じなのかもしれません。便利になることは新しくなり世界が変わると思っても、その変わった世界は本来の人間としての修行とは関係がない別の物ということでしょう。
色々と自分の刷り込みを疑い、今日も色々と確認してみたいと思います。