先日、古代からの行者堂で護摩焚きをするご縁がありました。この護摩焚きは密教などでも使われていますが、私はイラン人の方から拝火教(ゾロアスター教)のことを教わりそのご縁から興味を持ちました。それまで私は護摩焚きは火を拝んでいると思っていましたが、そうではなく光を拝んでいると聴きました。つまりは、拝火教ではなく拝光教であるということです。これにはとても納得したのを覚えています。
もともと私たちは光によって清め祓われているという感覚を持っています。朝夕の太陽の光を浴びていると、その感覚は誰にでも強くあるはずです。特に一陽来復の冬至のときや、夏至の日などはよりしっかりと実感します。
護摩焚きというものも、つい炎の方を見て燃えている様子が注目されますがよく観察すると光明が広がっています。特に岩窟の深いところや漆黒の暗闇の中で蝋燭の火を灯せばその周辺には明かりが広がります。
これは燃え盛る大きな炎ではなくても、小さな炭火に息を吹きかけても出てきます。私は炭が好きでよく炭を拝みますが、その光は小さい中にも偉大な明かりとして燦然と輝きます。
イランの方の拝火教では煙をお水という表現をされていました。確かに煙の中には、空気中の水分と和合してそれが広がっていきます。燻されるのもまたその水分によってのものです。しかし光は、煙ではありません。光は、火の深い部分から産出されてくるものです。
私は特定の宗教をやっているわけではなく、神仏自然全部和合している自然混淆を信仰していますが火にも水にも土にも木にも音にもその奥深いところにある徳に感動し、日頃の暮らしで調えるのに活用しています。
私たちは毎日、光を浴びています。植物などは、その光のエネルギーを栄養にして生きています。この光は単なる光ではなく、確かないのちを持っている特別な存在です。そして光が創り出す熱量は、私たちのいのちをあたため元氣にする存在でもあり、あらゆるものを清め浄化する存在でもあります。
今年は光を感じる取り組みを深めていくつもりで、護摩堂のようなものを私なりに創ってみようと思っています。色々と誤解されたりするかもなぁとは心配しつつも、自由に自分の古代からの感覚に委ねていきたいと思います。
子どもたちや子孫たちに本質が伝承できるように、ご縁から得た真理を形にして一期一会の方々と結んでいきたいと思います。