いのちという存在はどこで感じるのか、それは心の中ともいえます。心の中に育っているのがいのちです。このいのちはどのように育つのか、それは自然風土と渾然一体になって育ちます。私たちのいのちは、自然から活かされているという存在です。
いのちは無限で終わりはありません。しかし変化があります。変化すること、諸行無常はいのちの一つの姿です。それをいのちの廻りともいいます。
そもそもいのちは自然から離れることはありません。自然のハタラキがいのちのハタラキであり、そのハタラキの中にあるものがいのちの正体です。ずっと私たちはハタラキ続けている存在に活かされています。
人間がハタラキカタを學ぶのは、そこにはいのちのイキカタがあるからです。
同じ一生で、どのようにイキルか、ハタラクかはその人が決めることができます。
現代は不思議なことに長寿をいのりながらひたすらに急ぎすぎる生き方をしていたり、天命を全うしたいと願いながら便利な生活にどっぷりと漬かっていたり、あるいは環境を変えようとしてさらに人間の欲望を助長していくような環境を増やしたりといのちを感じることとは程遠い暮らしをしています。
人間は環境に流されやすい存在です。だからこそ先人たちは自然の深さを学び、場を創る存在になりました。その先人たちの克己の工夫と智慧の御蔭で、今でも私たちはいのちの豊かさに包まれています。
この先、機械化がさらに発展しお金は際限なく発行され、貧富の差別が拡大し自然が破壊されていけばいのちを粗末にしていきます。
空気やお水、光のように包まれている存在に気付ける人はいのちをより鮮明に甦生させていく人々です。私が徳積に取り組むのも、子どもたちの未来にこだわるのもこのいのちの甦生を続けていくためです。
いのちは消えてはいません。だからこそそのいのちを甦生させ続けることが今の時代は必要です。それがたとえ、大海の一滴であったとしても自然のハタラキといのちの輝きでいつかは元通り以上に快復していきます。宇宙、神羅万象は生々流転を已みません。
変化の有難さを味わいながら、いのちのめぐりの豊かさを丹誠を籠めて楽しんでいきたいと思います。