生活即信仰という言葉があります。これは生活文化そのものが信仰になっているという言い方です。あるいは信仰とは暮らしの真っただ中にあるとも言えます。そもそもこの言葉は、切り離せない一つのものして定義されているものです。別の解釈としては、これを伝統文化とも言えます。つまり伝統=文化であるように、暮らし=信仰であるということです。
例えば、朝太陽を拝み一日をはじめます。お水を井戸で汲むときも手を合わせて感謝し、火を熾してじっくりと調理をしそれを食べる時にも手を合わせ感謝します。そしてお互いに思いやり一日を送ります。自然の中にあるものをいただき、自然と寄り添い、健康や幸福を身近に感じながら一日を一期一会に豊かに暮らします。
この豊かな暮らしの中に信仰は息づいているという感覚です。自然に拝み、自然に感謝し、自然と共生する豊かさを味わい感謝で生きていくということ。これが信仰の原点ということです。
何らかの教義を信じるのは、信仰ではないと私は感じます。人間が設けた人間社会だけで完結するような真理はどこか歪んだ解釈が出てくるものです。大自然を先生として学び、大自然の徳の循環や全宇宙や星々の運行に倣い生きていくと信仰は揺らぎません。これは教義ではなく、根源的なものへの畏敬の念です。
最近は、特にお山に深く関わることが増えて法螺貝をよく吹く暮らしを通して山伏たちの生活文化を直観する機会が増えています。先人たちはお山の持つ清々しい霊亀や岩が放つ元氣や結界を通してぬくもりや思いやり、そして凛とした静寂を感じ豊かな暮らしを通して信仰を磨いてきたように思います。
私も少しずつ、そのお山の霊亀の御蔭さまで木々の導きやお水や風のゆらぎを得て真心を感じる機会が増えています。宿坊のお掃除をはじめ、遊行が本来の自己を知り學ぶ機会にもなっています。
お山の岩たちは太古のむかしから変わらずに自然に坐しています。
いのりの記憶を持つ岩たちと共に、暮らしフルネスをさらに精進していきたいと思います。