世の中には、学者と呼ばれる人、専門家と呼ばれる人、研究者と呼ばれる人それぞれに様々です。これは世間の評価軸の一つで、これで職種が振り分けられています。そのどれもに精通して一体になってしまうことや、分けようがない分野にまで到達している人のことを世間は奇人変人と呼んだりもします。
おかしな話で、整理できないものはすべて「変」で済まされてしまうのです。よく私も変人と呼ばれますが、そんなに悪い意味で使われている感じではありません。色々と広い分野から狭い分野、それに自分で人体実験までするので変人になったのかもしれません。
人の人生は、周囲の呼ばれ方で変わっていきます。私の場合は、若い時は、何かやりそうな人や、熱い人と呼ばれていました。そこからリーダーや経営者、教育者と呼ばれたり、その後は博士や炭オタク、アーティストと呼ばれ、今では変人や修行者、求道者などと呼ばれます。
そう考えると、本人には関係ないところで様々な呼び名をつけられて周囲がわかりやすいように分類されているのです。一つの道を歩んでいくなかで、その時々に歩んでいる場所で呼び名も変わるのでしょう。
しかし実際にこれを深めていると、本当は目的が何かを聴けばその人の本質はわかるものです。何をしようとする人なのか、何のためにやっているのかを確認すればその人の本当の正体がわかるのです。
世間から偉い人や分かりやすい人に分類されるのは、仕事をする上では便利なものです。こういう人と決めてしまうことで、世間は安心したいのでしょう。例えば、医者であれば医者の国家資格があれば医者になります。しかし世の中には、国家資格をもっていなくても伝統医療をはじめ、その人にもって生まれた才覚や先人たちの叡智や伝承されたもので人を治す医者もいます。それに医者にも、大医、中医、小医というように大医のように国家や人々、社会を治す医者も指します。
きっとこの大医も、最初は臨床で目の前の人を助けることからはじまり、それが研究や実践を積み、専門的な知識も増え、問題の本質に気づき、その結果、国家や世界を治療するようなことをはじめていったように思います。
つまりは、目的に対して道を真摯に追及していけば自ずから一つの場に辿り着くということです。それで私は「場道家」という肩書にしてしまいあとは何もないという具合に表現しています。
最終的には、道は場に宿るのだからその場を感じることで理解する。それでいいとしたのです。
便利な肩書はその都度これからも変化します。本人はどうかは別として周囲の価値観や世間のモノサシでいくらでも分類されるのでしょう。
子どもたちのためにも、自分らしく自分らしい道を拓いて少しでも人としての徳、自然あるがままでいることの大切さを伝道していきたいと思います。