嘘と本当 本物とは何か

嘘というものがあります。これはよく観察していないと世間ではその嘘こそが本当になっているものがあります。改めて少し深めてみようと思います。

そもそも嘘というのは、自分に対しての嘘と世間や他人への嘘というものがあります。自分に対しての場合は、自分がよく分かっていますからすぐに自分でわかります。そうならないようにするには、自分に正直になるしかありません。自分に正直というのは、自分の心に思うことに忠実であるということです。そしてよくよく内省と実践を通じて人知れず他人の評価を気にせず、見返りも求めず徳を積むかのように自己との対話し改善を続けていく地味なものです。

しかしそうではなく、世間や他人が嘘と思わなければ嘘ではないという嘘があります。これは世間や他人が嘘と思わないように上手いこと帳尻を合わせたり、その時々の小さな嘘で調整することで誤魔化しまわりに本当だと信じてもらえば噓ではないという理屈です。周りが本当だと信じる、世間が嘘ではないと思えば嘘ではないというのは自分には嘘でも周囲が嘘ではないといえばそれでいいという考え方です。

現代、世間から認められようとして評価されようとすると現行のシステムや価値観に迎合していこうとするものです。孤高に孤独に取り組んでいることを諦めると、最初は小さな嘘からはじまりそのうち嘘が本当だと信じるようになっていくものです。その嘘を信じる人たちを増やしても、実際の価値観を変えるほどにはなりません。病気であれば、完全に治癒するのではなく治癒したように見せることができても治癒ではないのと同じです。

そもそも治癒の本質は、自分で治すために環境をつくることくらいしかできませんから治癒した気になるものを治癒とはいいません。湿布薬や風邪薬のように効いている気がするものが治していると思い、みんな便利にそれを手にいれますが実際には便利なものでは治癒しないのです。

これは先ほどの嘘も同じく、嘘でなんとかなる世の中ではありません。むかしは道徳というものが根源にあり、正直であることは徳目の第一義にして生き方を磨いていきました。そもそも嘘というものはなく、正直であることが当たり前でした。現代のように、大衆や世間にさえ認められているのならという価値観になっていたら正直な人たちはみんな求道者のような佇まいに観えるかもしれません。

何が言いたいかというと、実際には正直とは自分の心の中に存在するものであるということです。それは人知れず、コツコツと自己を練磨し修行を積み重ねるようにしていくもの。誰かに見せるものでもなければ、誰かに分かってもらおうとするものでもないということ。完璧に嘘がない自分でいることが難しい世の中だからこそ、そうならないように日々の自己チェックを怠らずに、丁寧に反省して何度も挑戦しやり直していく日々を精進していくことだと私は思います。そうでないと、ミイラ取りがミイラになるように気が付けば自分も嘘つきになっているかもしれません。それくらい今は、嘘がつきやすい環境が蔓延しているのです。

私も先人のように法螺は吹くけど、嘘がない人でありたいと強く心に思います。

自分がどうかと取り組めば、他人のことや世間のことなど考える暇もありません。子孫のために、地道にコツコツと自らの場を実践で調えていきたいと思います。

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