人をはじめ、すべてのこの世にあるものは徳を具えています。この徳は、元々最初からあるものです。この最初は、終わりのない最初のことではじめも終わりもない永遠の中にある徳ともいえます。
その徳は、様々なカタチを変えてはこの世に顕現しています。あるものは鉱物になり、あるものは動物になり、またあるものは植物にと、ありとあらゆる姿に変化しては得を発揮します。
そもそも徳はあるのですが、その徳を発揮するのには徳を磨いていく必要があります。自然界や循環の世界では常に変化して磨かれていきます。自分の存在そのものにして全ての一部としての役割を果たしていきます。そしてこの存在そのものを徳ともいい、仏教では仏性ともいうのでしょう。
曹洞宗の開祖の道元禅師が、「仏道をならうというのは自己をならうことなり」といいました。また、「自己をならうというは自己をわするるなり」とも言ったそうです。私の解釈では、徳を學ぶのは自己を學ぶこと、自己を學ぶのは自己の存在に氣づくことというのではないかと思います。
そもそも自己というものは何か。
自己とは、そのもののあるがままの存在のことです。他人と比べての自己でもなく、自分の価値観や知識で理解し思い込んだ自己でもなく、また或いは分類わけした個体としての自己でもありません。
この時の自己をならうとは、すべての存在と一体になっている役割のことでありあるがままの徳に氣づいている徳の境地のことではないかと私は思います。仏陀は自燈明法燈明ともいいました。この自己の燈明こそが、自己の徳であるということでしょう。
徳はまず最初から具わっているものの発見からはじまります。それを発見するために様々な暮らしの作務を通して無心になることで次第に顕現してきます。顕現したら今度は、それを磨いていき光らせていくように積んでいくのです。
そうしていくことで、人は悟り元来の人間性に甦生します。
元来の人間性とは、抽象的な言い方になりますが明るく清々しく素直で元氣なものです。それはまるで地球の自然界の生き物たちが最期まで生を全うするようにいのちのエネルギーを発揮している状態に似ています。
自己をならうというのは、學問の原点であり人間の本質なのでしょう。
最後に、老子はこういいます。
「高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとする。そういうわけで徳がない。」
と、自然体、かんながらの道の中に徳の教えは生きています。
そして「徳道は自己をわするるなり、自己を磨き、あるがままの徳になるなり。」
色々と試行錯誤の修行の日々ですが、一期一会に味わっていきたいと思います。