人には発達段階というものがある、自然な流れで発達していけばそのことからその人らしさは自然に引き出されていくものである。
しかし何かの理由から発達ができないようになってしまうと、すぐにそこに歪が生じてどこか無理をするようになってしまう。その発達とは、誰かによって意図的に作られるのではなく本来は自らで融通無碍に発達していく方が自然なのである。
そしてそういう発達こそが、本来のその人らしさを創りあげていくといってもいい。
そしてその人らしさとは、その人自身が主人公となってそれを実現するのである。
今は、それを勘違いし発達というものは他人の手によって行われていると思っている人がとても多い、しかもそれは保育や教育に携わっている人ほど多く感じるのは悲しいことです。
その人らしさというのは、実は他人では創りだすことはできません。それはその人らしさというのは、すべてその人が自然にそれを形成していくからだとも思います。そしてそれを創造するのは、その人が主体でなければできません。その人が主体であるには、その人本来のやりたいことを尊重して丸ごと認めていかなければその人らしさはでてこないのです。
それを誰かによって教育され、こうあるべきだと過保護過干渉に手を加えれば次第にどこか無理が生じてその無理からどちらかが身体を壊したり心を痛めたりすることになるのです。
特に親子間でも多いことですが、愛情がそうさせるのだと思いますが世の中にはそういう親子の問題で溢れかえっています。
しかしよく考えてみるとこの道理が間違っていることはよくわかります、例えば自然でいえば太陽というのはただ自らを燃やし遍く生命に光を照らし続けています。これを親心ともいいます、それを一部の植物が大変そうだからやあの動物が絶滅しそうだからなどといって特別に一部を照らそうとはしません。それに、弱いから鍛えてやろうや、あのままではダメだから自分が見ておかなければなどといったこともありません。
太陽はただ照らし続けるのです。
それに対して、地上ではどうしているかといえば必死に照らしてくださっているのだからと感謝して伸びようとします。自分なりに、周囲の環境がどうであれ自由に自分らしく生きようとするのです。
天と地の道理で考えれば、親子とはまずそうあるべきところが先であると思います。
その上で、今度は人間同士なのだから筋をちゃんと正し、順番を守り譲る事や、御互いに大変だと思いやり助け合っていくのであろうと私は思います。
だいたい親子間での問題は、自然との問題と直結しているのです。世の中の親子間をよくしていくことは、世間をよく治め平和な社会を築くためにも大切なことであろうと私は思います。
だからこそ、親子であるということは、太陽を忘れないこと、天の見守りをいつも感じるところからが筋や思いやりよりも先にあるべきであろうと私は思います。私たちがこうやって生きていられるのは、当たり前ともいうべき太陽の暖かさと水の優しさがあるからです。
そういうところからもう一度、子どもを見守るということを考えていく必要があると思います。
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正月に実家で家族とゆっくりと過ごし、会社や仕事のことについて話をしました。月に一度届く竹取新聞を楽しみにしているとのことで、楽しみに待っていてくれることをうれしく感じます。もし今も実家住まいだったら、私も両親もそう思っているだろうかと考えると、そうではないように思います。
正月父親から「頼りない親かもしれないけど、頼ってこいよ」と一言。明らかに酔っぱらっていましたが、それでもそういった一言を掛ける父親の温かさは時間が経ってより考えさせられます。自分の両親からもらった優しさを両親へ、そして子どもたちへ還元していきたいと思います。
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子どもの状態によって自分が何をしてあげるのかと考えた時、子どもが自分から求めている事を伝えられるように、伸びたい気持ちを伝えられるようにいつも暖かく見守れる父親で在りたいと思います。成りたい親のイメージに向かって、自分らしく発達していきたいと思います。
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その人らしさは他人が創る事が出来ない、聞けば当たり前と感じる事が、普段の生活に戻るといつの間にか相手に対しての見方や関わり方が変わっている事に気づかされます。もし子供がいてその子らしさを出してほしいと本当に思うのであれば、やはり直接手を出したり、何かを押し付けるのではなく、その子が主体的に考えたり動ける環境を作るのが私たちの役割ではないかと感じます。